長命寺とは? 法然上人ご法語

法然上人 ご法語  下

更新日         03/03/12  

法然上人ご法語 上 選択集(せんちゃくしゅう) 勅修御伝(法然)  
法然上人ご法語 下 浄土宗テキスト    

法然上人のご法語で、三十一日に分けて、毎月○○日にお称えするようになっています。

岩沼さんのご協力でできました!ありがとう!ナムナム

鎌倉時代の言葉で難しいですが、やさしい?言葉に順次仕上げましょう!

今回は早かった! いいソフトがありましたので!

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 元祖大師御法語(後編)

第一


 浄土門(じょうどもん)と云うは、此の娑婆世界を、厭い捨てて、急ぎて、極楽にうまるる也。

彼の国、生るる事は、阿弥陀仏の、誓いにて、人の善悪を、選ばず、只、佛の、誓いを、頼み、頼まざるによる也。

此の故に、道綽(どうしゃく)は、浄土の一門のみありて、通入すべき、道なりと、宣(のたま)えり。

されば、このごろ、生死を、離れんと、思うはん人は、證し難き、聖道を捨てて、行き易き、浄土を願うべき也。

此の聖道浄土をば、難行道、易行道と、名付けたり。

例えを、とりて、これを云うに、難行道は、険しき、道を、かちにて、ゆくが如し。

易行道は、海路を、船に乗りて、行くが如しといえり。

足萎(な)え、目しい、たらん人は、斯(か)かる、道には、向かうべからず。

只船に、乗りてのみ、向かいの岸には、つく也。

然(しかる)るに、このごろの、我らは、智恵の、眼、しひ、行法の、あしなえたる輩也。

聖道難行の、険しき、道には、惣(そう)じて、望みを、絶つべし。

ただ彌陀の本願の、船に乗りて、生死の海を渡り、極楽の岸に、着くべき也。

「浄土門というのは、この穢れた婆婆世界を厭い捨てて、寿命を終ったならば直ちに極楽浄土に往生することを説く教えである。

極楽浄土に往生することは阿弥陀仏の本願の力によってできることであって、その人の善し悪しを選んでできることでない。

ただ仏が誓い給うた本願を頼みにするかしないことによって、往生できるかできないかが決まるのである。

このように往生は人の力によるのでないので、道綽(どうしゃく)禅師は『浄土の一門だけが広く誰にも通じ、遠く将来にわたって悟りに入る教えである』といっている。

こうしたわけで、この頃の人が迷いの世界から離れたいと願うならば、修行しても悟りを開くことが難かしい聖道門の教えを捨てて誰でも往生し易い浄土門の教えによって悟りを開くことを願わなくてはならない」


 このご法語を説いている浄土宗略抄は、鎌倉の二位の禅尼といわれていた源頼朝の妻政子の要請によって浄土宗の要義を詳しく説いたものである。

まず仏道の修行を大きく分ければ聖道門と浄土門となるとし、聖道門については「釈尊が入滅し給うてから今日まで時代が遥かに経ち過ぎているために聖道門の教えを修行しても悟り難いということであり、教えを聞いても惑い易いということである。

そのためにわれ等如き者にとっては特にこだわらないのである」と説き、続いてこのご法語が述べられているのである。


「曇鸞(どんらん)大師によれば、聖道門は修行し難い教えであるから難行道といい、浄土門は修行し易い教え
であるから易行道といっている。

これを例えていうならば、難行道の修行は険しい坂道を徒歩で登るようなものであり、易行道の修行は海路(かじ)を舟に乗って渡るようなものであると説いている。

まして足が萎(な)えて歩くのが不自由な人や、視力をなくして見ることができないような人は険しい坂道に向って行ってはならない。

それよりは船に乗って苦海を渡ってゆけば、やがて悟りの向い岸に着くことができる」

 各宗ではそれぞれの教判をたてるために、一切の経典を分析して評価し、その中から最高深遠な教理を説き明かす経典を見極めようとしている。

しかし浄土宗では教理の深浅を問題としているのでなく、修行の難易を論ずるのである。

 修行の段階と方法を工夫するのでなく、直ちに成仏できるかどうかを案ずるのである。

聖道門がいかに深遠な教理を説いていても、私たちにとって修行し難い教えであれば無縁な法門である。

それよりも念仏を唱えていれば誰でも極楽浄土に往生できて、やがて悟りの境地になれるのであるから、私たちにとってふさわしい法門である。

「ところがこの頃のわれ等は智慧を学びたくても視力が衰えて見ることができないし、修行したくても足が委えて作法の一つもできないのである。そのために聖道門の難行道という険しい道を登る修行はすべて望みが断たれている。

ただできることは阿弥陀仏の本願という船に乗って生死を繰り返している苦海を渡り、極楽浄土という向い岸に着くことだけである」

しゃば【娑婆】

さまざまの煩悩(ぼんのう)から脱することのできない衆生が、苦しみに耐えて生きているところ。釈迦如来が衆生を救い、教化する世界。現世。俗世界。娑婆世界。娑界。

みじ(‥ぢ)【海路】

海上の船の通る道。かいろ。うなじ。うみつじ。

どんらん【曇鸞】  「往生論注」より

中国、北魏時代の僧。はじめ般若思想を学んだが、のち不老長寿を願って仙士陶弘景を訪ね、仙術を修得した。しかし帰途、洛陽で菩提流支(ぼだいるし)に会うに及び仙経をすてて浄土教に帰した。著に「往生論注」「讚阿弥陀仏偈」など。浄土五祖の第一。(四七六〜五四二)

みなもと‐の‐よりとも【源頼朝】 

鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱で敗走中に捕らわれて伊豆に配流。治承四年挙兵して石橋山の戦いに敗れたが、間もなく勢力を回復、鎌倉に入り、武家政権の基礎を樹立。弟範頼・義経に命じて木曾義仲を討ち、続いて平氏を滅ぼした。のち不和となった義経追捕を口実に守護・地頭設置の許可を得て武家支配を確立。文治五年藤原氏を滅ぼして陸奥・出羽を勢力下に入れた。建久元年権大納言、右近衛大将に任ぜられ、同三年征夷大将軍となった。(一一四七〜九九)

ほうじょう‐まさこ(ホウデウ‥)【北条政子】

 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の妻。北条時政の娘。伊豆配流中の頼朝に嫁し、頼家、実朝を生む。頼朝死後、幕政に参加。幕府実権を掌握して尼将軍といわれた。(一一五七〜一二二五)

じょうど‐しゅう(ジャウド‥)【浄土宗】 

平安末期、法然房源空が開いた浄土教系の宗派。無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経を基本の経典とし、中国の善導に依りどころを置いて、難易二道、聖浄二門の対立を通して安元元年の春、もっぱら南無阿弥陀仏の名号を念仏すれば極楽浄土に往生できると説き、戒律や造寺造仏の不要を主張した。その著「選択本願念仏集」は立教開宗の書とされる。浄土専念宗。念仏宗。

しょうどう‐もん(シャウダウ‥)【聖道門】 

修行して、現世において迷いを断ち、聖者となって、悟りを得ようとする道。また、浄土教以外の諸宗。自力門。難行道。⇔浄土門

じょうど‐もん(ジャウド‥)【浄土門】 

阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏してその浄土に往生することを説く教えの総称。⇔聖道門(しょうどうもん)。→浄土教

 

 


第二


 凡そ、生死をいづる行、一つに非ずと云えども、まず極楽に、往生せんと願え。

彌陀を念ぜよ、云うこと、釈迦一代の教えに、遍く、勧め給えり。

その故は、阿弥陀仏本願を、興して、我が名号を、念ぜん者、我が浄土に、生まれずば、正覚を、取らじと、誓いて、既に、正覚をなり給う故に、此の名号を、称える者は、必らず往生する也。

臨終の時、諸々の聖衆と、共に、来たりて、必ず、迎接し給う故に、悪業として、さふるもの無く、魔縁として、妨げること無し。

男女貴賤をも、選ばず、善人悪人をも、分かたず、指針に彌陀を念ずるに、生まれずと云うこと無し。

 

例えば、重き石を、船に、乗せつれば、つづむ事無く、万里の海を、わたるが如し。

罪業の、重きことは、石の如くなれども、本願の、船に、乗りぬれば、生死の、海に、つづむ事無く、必ず往生するなり。

ゆめゆめ、我が身の、罪業によりて、本願の不思議を、疑はせ、給うべからず。

これを他力の、往生とは申す也。『 十二箇条問答 』

「凡そ生死を繰り返している迷いの世界から抜け出すための修行は一つだけでなく幾つもあるが、その中ではまず極楽浄土に往生したいと願うのがよいのである。

往生するためには念仏を唱えよということは、釈尊ご一代の教えの中で広く勧め給うているところである」


ある人が上人に問うていうのに「念仏を唱えていれば往生できるということは耳慣れた教えであるが、自分のように教えを十分に学んでいるわけでなく、煩悩をおこしている者が往生できるということはどうしてであろうか」というのであった。

上人がこの間いに答えた言葉の初めに述べたのが、このご法語である。

上人は続いていうのに、臨終には阿弥陀仏が多くの菩薩ととも来迎し給うので、どのような魔縁があっても妨げられずに往生できるのであると教えた。

そして念仏を唱えていれば男女貴職、善人悪人を区別することなぐ往生できるというのは、例えば罪業が石のように重くても本願という船に乗せれば万里の海を渡って彼岸に届くのと同じであると教えた。

 

「例えば重い石を船に乗せて運べば、沈むことなく万里の海を渡り、向い岸に届くようなものである。

犯した罪が重いことは石のようであっても、阿弥陀仏の本願という船に乗れば迷いの世界という海に沈むことなく、必ず極楽浄土に往生することができる。

わが身が犯した罪が重くても、それによって本願の不思議な力を疑うようなことは決してあってはならない。

このように仏の本願の力によって往生することを、他力の往生というのである」


ある人が問うていった。

「念仏を唱えれば往生できるということほ、耳慣れた教えであっても、どうして往生できるかを知らない。

わが身のように障りが多い身であっても捨てられないというならば、そのわけを詳しく教えて欲しい」と。

この問いに対して上人が答えていうのに、念仏を唱えていれば臨終に際して阿弥陀仏が来迎し給うのであるから、どのように障りが多くても男女貴賎を選ぶことなく、善人でも悪人でも往生できるであると教えた。

そしてその例として、このご法語を述べた。

更にこのご法語に続いて説いていうのに「自力によって迷いの世界から抜け出すためには煩悩と罪業を断じ尽して往生しょうとするものであって、例えば徒歩で険しい坂道を登ってゆくようなものである」と教えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

第三


 上人播磨の信寂房に、仰せられけるは、ここに、宣旨の二つ侍るを、摂り違いて、鎮西の宣旨を、板東へ、下し、板東の宣旨をば、鎮西へ、下したらんには、人用いてんやと宣うに。

信寂房、暫く案じて、宣旨にても候へ、摂り換えたらんをば、如何、用い侍るべき。と申しければ。御房は道理を知れる人かな。やがてさぞ。

帝王の宣旨とは、釈迦の遺教也。宣旨二つ有りというは、正像末の三時の教え也。

聖道門の修行は、正像の時の、教え成るが故に、上根上智の、輩に、あらざれば、證し難し。

例えば、西国の宣旨の如し。

浄土門の修行は、末法濁乱の、時の教え成るが故に下根下智の、輩を、器者とす。

これ奥州の宣旨の如し、然れば、三時相応の宣旨、これを摂り違ふまじき也。

大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は、互角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の期に、適わず。

浄土門は、浅きに、似たれども、當根に、適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人皆、信伏しきとぞ、仰せられける。『 勅伝 第六 』


第四


 双巻経の、奥に、三宝滅盡の、後の衆生、乃至一念に、往生すと、解かれたり。

善導釈して曰く、万年に三宝滅して、此の経住まる事百年、爾の時聞きて一念すれば。皆当にかしこに生ずることを得べしといえり。

此の二つの意をも持て、彌陀の本願の、広く攝し、遠く、及ぶ程をば、知るべき也。

重きをあげて、軽きを納め、悪人を挙げて、善人を納め、遠きを挙げて、近きを納め、後を挙げて、前を納める成るべし。

誠に、大悲誓願の、深廣成る事、容易く、言葉を持て、のぶべからず。

心を留めて、思うべき也。抑も此の頃、、末法に、入りといえども、未だ百年に、みたず、我ら罪業、重しといえども、未だ五逆を作らず。

然れば、遥かに、百年法滅の後を、救い給えり。

況や此の頃をや。広く五逆極重の、罪を捨て給わず。況や。十悪の我らをや。

ただ三心を具して、専ら、名号を称すべし。


 善根無ければ、此の念仏を修して、無常の功徳を、得んとす。

余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。

然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。

経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。

又即ち、無常の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。


第六


 釈迦如来、此の経のうちに、定散の諸々の行を、説き終わりて後に、正しく、阿難に、付属し給う時には、上に説く所の、散善の三幅業、定散の十三観をば、付属せずして、只念仏の一行、付属し給ヘリ。

経に曰く、佛阿難に告げ給わく、汝好く此の語を保て。

此の語を保てとは、即ちこれ無量寿佛の名を保てとなり。

 善導和尚、この文を釈して宣わく、

佛阿難に告げ給はく、汝好く此の語を保て依り已下(いげ)は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通し給うことを明かす。

上来定散両門の益を、説くと云えども、佛の本願に臨むれば、意衆生をして、一向に専ら、弥陀佛の名を称せしむるに有り。

上已此の定散の諸々の行は、弥陀の本願に、有らざる故に、釈迦如来の、往生の行を、付属せずして、念仏はこれ、弥陀の本願なるが故に、正しく、選びて、本願の行を、付属し給えるなり。

今、釈迦の、教えに従いて、往生を、求むる者、付属の念仏を、修して、釈迦の御心に適うべし。

これにつけても、又よくよく、御念仏候て、佛の付属に、適わせ給うべし。『 勅伝 第二十五 』

第七


 浄土宗の已、善導の御釈には、往生の行に、大いに、わかちて、二つとす。一つには正行、二つには雑行なり。

はじめに、正行というは、これに数多の行有り。

はじめに、読誦正行というは、これは無量寿経、観経、阿弥陀経等の、三部経を、読誦するなり。

次に観察正行というは、これは、彼の国の、依正二報の、有様を観ずるなり。

次に、礼拝正行というは、これは、阿弥陀ほとけを、礼拝する也。次に、称名正行というは、南無阿弥陀仏と、称える也。

次に、讃嘆供養正行というは、これは、阿弥陀仏を讃嘆し、奉る也。

これを指して、五種の正行と名付ける。

讃嘆と供養とを、二つの行と、する時は、六種の正行とも申す也。

此の正行に付きて、ふさねて、二つとす。

一つには一心に、専ら、弥陀の名号を、称えたて奉りて、立ち居、起き臥、昼夜に、忘れる事無く、念々に、捨てざる者を、これを、正定の業と名付ける。

彼の佛の本願に、順ずるが故にと申して念仏を、持て、正しく、定めたる、往生の業と立て候。

もし礼誦等に依るをば、名付けて、助業とすと申して、念仏の外の、礼拝、読誦、讃嘆供養などをば、彼の念仏を、助ける業と申して候也。

さて此の正定業と、助業とを、除きて、その他の、諸々の業をば、皆雑行と名付く。


第八


 其れ浄土に、往生せんと、思はば心と行との、二つ相応すべき也。

かるが故に、善導の釈に、但し、その行のみ有るは、行即ち、一人にして、又、至る所無し。

只その願のみ有るは、願即ち、虚しくして、又到るところ無し。

必ず、願と行と、相助けて、なすところ、皆剋すといへり。

およそ、往生のみに限らず、聖道門の、得道を、求めんにも、心と行とを、具すべしといへり。

発心修行と、名付けるこれなり。今此の浄土宗に、善導の如きは、安心起行を名付けたり。

 もし極楽浄土に往生したいと願うならば、願う心に相応しい修業がなくてはならない。そこでこのことを善導大師は観経玄義分(かんぎょうげんぎぶん)に中で説いていうのに、仏道を修めるためには心願と身行とが兼ね具っていなければならない。もし、心願を欠いた修業であれば、行き着く先が明確でないために修業が孤立してしまう。もし、身行がなければ、心願が成就されないために虚しい心願となってしまう。心願と身行とが両々相待って扶けあってゆくことによって、初めて1つの目的が達成できる。としている。

 願いと修業が兼ね具って初めて目的が達せられることは、往生についていっているばかりでない。聖道門にあって悟りを開きたいと願うにも、悟りを求めたいという願う心と修業とを兼ね具えていなければならないとさsれている。このことを聖道門では発心と修業いっている。いま浄土宗においていえば、善導大師が説いている通り、三心を具えて念仏を唱える安心起行と名づけている。


第九


 至誠心と云うは、大師釈して宣わく、至と云うは、眞也。

誠と云うは、実なりといえり。

ただ真実心を、至誠心と、善導は、仰せられたり。

真実と云うは、諸々の、虚仮の心の、無きを云う也。

虚仮と云うは、貪瞋等の、煩悩を、興して、正念を失うを、虚假心と釈する也。

全て、諸々の、煩悩の、興る事は、源、貪瞋を、母として、出生する也。

貪というについて、喜足小欲の貪有り、不喜足大欲の貪有り。

今浄土宗に、制する所は、不喜足大欲の、貪煩悩也。

まづ行者、かようの、道理を心得て、念仏すべき也。

これが真実の念仏にて有る也。喜足小欲の貪は、苦しからず。

瞋煩悩も、敬上慈下の心を、破らずして、道理を、心得ん程也。

痴煩悩というは、愚かなる心也。此の心を、賢くなすべき也。

まづ生死を、厭い、浄土を、願いて、往生を大事と、営みて、諸々の家業を、事とせざれば、痴煩悩無き也。

少々の痴は、往生の障りにはならず。

これほどに、心得つれば、貪瞋等の、虚仮の心は、失せて、真実心は、易く、興る也。

これを浄土の菩提心という也。

詮ずる所、生死の報いを、かろしめ、念仏の一行を、励むが故に、真実心とは云う也。


第十


 初めには、我が身の程を信じ、後には、佛の願を信ずる也。

その故は、もし、はじめの、信心をあげずして、後の信心を釈し給はば、諸々の、往生を願はん人、たとひ、本願の名号をば、称ふとも、自ら心に、貪欲、瞋恚の煩悩を、興し、身に十悪破壊等の、罪悪をも、作り足ることあらば、妄りに、自信を、かろしめて、身の程を、省みて、本願を疑い、候まし。

今、此の本願に、十聲一聲までに、往生すというは、朧気の、人には、あらじなぞと、覚え候はまし。

しかるを、善導和尚、未来の衆生の、此の疑いを、おこさん事を、かがみて。

此の二つの心をあげて、我らが未だ、煩悩をも断ぜず、罪業をも、作る、凡夫なれども、深く弥陀の、本願を信じて、念仏すれば、一聲に到るまで、決定して、往生する由を、釈し給得る、

此の釈の、事に、心にそみて、いみじく、覚え候也。『 勅伝 第二十二 』


第十一


 回向発願心というは、過去、及び、今生の、身口意業に、修するところの、一切の善根を、真実の心を持て、極楽に回向して、往生を欣求する也。

これを回向発願心と名付く。

此の三心を、具しぬれば、必ず往生する也。


第十二


 昔の太子は、万里の、なみを凌ぎて、龍王の、如意寶樹を、得給へリ、

今の、我らは、二芽の水火を分けて、弥陀本願の、宝珠を得たり。

彼は、龍神の、悔いしが為の、奪われ、これは異学異見の為に、奪はる。

彼は、貝の殻を、もて、大海を、くみしかば、六欲四禅の、諸天来たりて、同じく、くみき。

これは信の手を、もて、疑謗の難を、くまば、六方恆沙の諸佛、来たりて、くみし給ふべし。『 勅伝 第三十二 』


第十三


 一々の願の、終わりに、もし爾らずば、正覚を土らじと、誓い給へり。

然るに、阿弥陀仏、、佛になり給いてより、この方、既に十劫を、へ給へり。

当に知るべし、誓願虚しからず。

然れば、衆生の稱念する者、一人も、虚しからず、往生することを得。

もし、しからずば、たれか、佛になり給経ることを信ずべき。

三寶滅盡の、時なりと、雖も、一念すれば、尚往生す。

五逆深重の、人なりと、雖も、十念すれば、往生す。

いかに況や、三宝の世に生まれて、五逆を、作らざる我ら、弥陀の名号を、称へんに、往生疑うべからず。

今、此の願に、遭える事は、実に、これ、朧気の縁に非ず。

よくよく、悦び、思し召すべし。例え又、遭うといえども、もし信ぜざれば、遭わざるが如し。

今深く、此の願を信ぜさせ給へり。

往生疑い思し召すべからず。必ず必ず、ふた心なく、よくよくお念仏候て、この度生死を、離れ、極楽に、生まれさせ給うべし。


第十四


 門。信心のようは、承りぬ。行の次第、如何候べき。


 答。四修をこそ、本とすることにて候へ。

一つには長時修、乃至,四つには無余修也。

一つには長時修と云うは、善導は、命の終わるを、期として、誓いて中止せざれという。

二つには恭敬修と云うは、極楽の、仏法僧宝に於いて、常に、臆念して、尊重をなす也。

三つに無間修と云うは、要訣に曰く、常に念仏して、往生のこころをなせ。

一切の時に於いて、心に常に臣、巧むべし。

四つには無余修と云うは、要訣に曰く、専ら極楽を求めて、彌陀を臆念する也。

ただ諸余の行業を、雑起せざれ。

所作の業は、日別に念仏すべし。

第十五


 毎日の所作に、六万十萬の数編を、念珠を繰りて、申し候はんと、二万三萬を、念珠を、確かに、一つづつ申し候はんと、何れか、よく候べき。

答。

凡夫の習い,二万三萬を,あつとも,如法には、適い,がたからん。只数編の、多からんには過ぐべからず。

名号を相続せん為也。

必ずしも、数を、要とするには非ず,只常に念仏せんが為也。数を定めぬは、懈怠の因縁なれば、数編を、勧めるにて候。『 勅伝 第二十二 』

第十六


 門。念仏せんには、必ず、持たずとも、苦しかるまじく候か。


 答。必ず念珠を、持つべき也。

世間の、唄を、歌い、舞を、舞うすら、その拍子に、従う也。念珠を、博士にて、舌と手と、動かす也。

但し無明を、断ぜざらん者、妄念、おこるべし。

世間の客と、主との如し。念珠を手に取るときは、念佛の、数をとらんとは、約束せず。

念仏の,数とらんとて,念仏の、主を、すえつる上は、念仏は主、妄念は客也。さればとて、心の妄念を、許されたるは、過分の恩也。

それに、あまさえ、口に様々の、雑言をして、念珠を、繰り越しなどする事、ゆゆしき假事也。


第十七


 百万遍の事。

佛の願にて候はねども、小阿弥陀経に、もしは一日、もしは二日、乃至七日、念仏申す人、極楽に、生ずると、説かれて候へば、七日念仏申すべきにて候。

その七日の、程の数は、百万遍に、当たり候ふ由、人師釈して候へば、百万遍は、七日申すべきにて候へども、他へ候ざらん人は、八日九日などにも,申され候へかし。

さればとて、百万遍、申さざらん人の、生まれまじきにては候はず。

一念十念にても生まれ候ふ也。一念十念にても、生まれ候ふほどの、念仏と思い候ふ嬉しさに、百万遍の、功徳を、重ねるにて候ふなり。『 勅伝 第二十三 』


第十八 


 十重を保ちて、十念を唱えよ。

四十八軽を、守りて、四十八願を頼むは、心に深く、希うところ也。

おおよそ、何れの行を、専らにすとも,心に戒行を、保ちて、浮綯うを、守るが如くにして、身に威儀に、油鉢を、かたぶけずば、行として成就せずと、云うこと無し。願として、円満せずと、云うこと無し。しかるを。

我ら、或いは四十を、犯し、十悪を行ず。彼も、犯し、これも、行ず。一人として、誠の戒行を、具したる者はなし。

諸悪莫作,諸善奉行は,三世の諸佛の通戒也。

善を修する者は、善趣の報を得、悪を行ずる者は、悪道の果を感ずという、此の因果の道理を聞けども、聞かざるが如し。

初めて、云うに、能わず。然れども、分に従いて、悪業を、止めよ。

縁にふれて、念仏を行じ、往生を期すべし。


第十九


 孝養の心を持って、父母を、重くし、思もはん人は、まず阿弥陀ほとけに、預け、参らすべし。

我が身の、人となりて、往生を願い、念仏すること、偏に我が父母の、養いたてればこそあれ。

我が、念仏し候ふ功徳を哀れ見て、我が父母を、極楽へ、迎えさせ、おわしまして、罪をも滅し、在せと、思わば、必ず必ず迎え取らせ、おわしまさんずるなり。

第二十


 ある時には、世間の無常なる事を、思いて、この世の、いく程無き事を知れ。

ある時には、仏の本願を思いて、必ず、迎え給えと申せ。

ある土岐には、人身の受け難き、理を、重いて、この度、空しく、止まん事を、悲しめ。

六道を、巡るに、人身を、うることは、梵天より、糸を下して、大海の、底なる、針の穴を、通さんが、如しといえり。

ある時は、会い難き、仏法に会えり。

この度、出離の業、うえずば、いつをか、期すべきと、思うべき也。一度、悪道に、出しぬれば、阿僧祇園甲を、ふれども、三宝の、御名を聞かず。

如何に、況や、深く、信ずる事をえんや。ある時には、我が身の、宿善を、喜ぶべし。

賢いき、卑しきも、人、多しと、言えども、仏法を信じ、浄土を、願う者は、希なり。

信ずるまでこそ、かたからめ、謗り、憎みて、悪道の因をのみ、作る、造るに、これを信じ、これを貴びて、仏を頼み、往生を志す、これ偏に宿善の、しからしむる也。

只今生の、励みに有らず、往生すべき、期の至れる也と、頼もしく、喜ぶべし。

斯様のことを、折に従い、事によりて、思うべき也。


第二十一


 念仏して、往生するに、不足無しと、いいて、悪業をも、憚らず、行ずべき、慈悲をも、行ぜず、念仏をも、励まさざらん事は、仏教の、掟に、相違する也。

例えば、父母の慈悲は、良き子をも、悪しき子をも、育むめども、よき子をば、喜び、悪しき子をば、嘆くが如し。

仏は一切衆生を、哀れみて、良きをも、悪しきをも、渡し給えども、善人を見ては、喜び、悪人を見ては、悲しみ給えるなり。

良き地に、良き種を、まくかんが如し。

構えて、善人にして、しかも、念仏を修すべし。これを真実に、仏教に、従うものという也。


第二十二


 往生せさせ、おわしますまじき、やうにのみ、申し聞かせ、まいらする人々の、候ふらんこそ、返す返す、浅ましく、心苦しく候へ。

如何なる智者、目出度き人々、仰せられるるとも、それにな、驚かせ、おわしまし候。

各々の道には、目出度く、貴き人なりとも、悟り、ことに、行、異なる人の、申し候ことは、往生浄土の、為には、中々ゆゆしき、退縁悪知識とも、申しぬべき、事どもにて候。

只凡夫の、計らいをば、聞き入れさせ、おわしまさで、一筋に、仏の御誓い、頼み、参らせ、おわしますべく候。


第二十三


 まめやかに、往生の志し有りて、弥陀の本願を、疑わずして念仏を申さん人は、臨終の、悪ろき事は、大方は、候まじき也。

その故は、仏の来甲し給うことは、もとより、行者の、臨終正念は、為にて候なり。

それを、意得ぬ人は、皆、我が、臨終正念にして、念仏申したらん時に、仏は、迎え給うべきなりとのみ、意得て候ふは、仏の願をも信ぜず、経文をも、意得ぬ人にて候ふなり。

その故は、称讃浄土経に曰く、仏、慈悲をも、加えたすけて、心をして、乱れしめ給うはずと、説かれて、候えば、只の時に、翌々申しおきたる、念仏によりて、臨終に、必ず仏は来迎し給うべし。仏の来迎し給うを、見奉りて、行者、正念に、住すと申す義にて候。

然るに、先の念仏を、空しく思いなして、由無く、臨終正念をのみ、祈る、人などの候は、ゆゆしき、僻日が異夢に、入りたる事にて候なり。

されば仏の本願を、信ぜん人は、兼ねて、臨終を疑う心、在るべからずこそ、憶え候へ。只当時申さん念仏をば、愈愈、至心に申すべきにて候。


第二十四


 五逆罪と申して、

現身に父を殺し、母を殺し、悪心を持って、仏心を、損ない、諸宗を破り、斯くの如く、重き罪を作りて、一念懺悔の、心もなからん、

その罪によりて、無間地獄に落ちて、多くの劫を、送りて、苦を受けるべからん者、

終わりの時に、善智識の、勧めによりて、南無阿弥陀仏と、十声唱ふるに、一声に、各々八十億劫が間、生死に、めぐるべき、罪を滅して、往生すと、説かれて候ふめれば、

さほどの、罪人だにも、只十声一声の念仏にて、往生は、し候へ。

誠に、仏の本願の力ならでは、いかでか、さる事候ふべきと、覚え候。


第二十五


 問うて曰く、摂取の訳を、かうぶる事は、平生か、臨終か、如何。

答えて曰く、平生の時なり。

その故は、往生の心、誠にて、我が身を疑う事無くて、来迎を待つ人は、これ三心具足の、念仏申す人なり。

この三心具足しぬれば、必ず極楽に、生まれるという事は、観経の説なり。

かかる志ある日とを、阿弥陀仏は、八万四千の光明を、放ちて、照らし給えうなり。

平生の時、照らしはじめて、最後まで、捨て給はぬなり。

ゆえに不捨の誓約と申す也。


第二十六


 弥陀の本願を、深く信じて、念仏して、往生を願う人をば、

見だ仏より、始め奉りて、十方の諸物菩薩、観音勢至、無数の菩薩、この人を圍繞して、

行住坐臥、夜、昼をも、嫌わず、陰の如くに、添いて、諸々の横悩をなす、

悪鬼悪神の、頼りを、払い、除き給いて、現世には、横さまなる、煩いなく、安穏にして、命柔の時は、極楽世界へ、迎え給うなり。

されば念仏を信じて、往生を、願う人は、殊更に、悪魔を、はらわん為に、萬の仏、神に、祈りをもし、慎みをもする事は、なじかはあるべき。

況や、仏に帰し、法に帰し、僧に帰する人には、

一切の神王、恒沙の鬼神を、眷属として、常にこの人を、守り給うといえり。

然れば、かくのごときの、諸佛諸神、圍繞して、守り給うはん上は、

又何れの、佛神かありて、悩まし、妨げる事あらん。


第二十七


 宿業、限りありて、受くべからん病は,如何なる諸々の仏、神に、祈るとも、それに、るまじき事也。

祈るによりて、病も止み、命も、延る事あらば、誰かは、一人として、止み、死ぬる、人あらん。

況や、又仏の御力は、念仏を信ずる者をば、転重軽受といいて、宿業限り有りて、重く、浮くべき、病を、軽く、受けさせ給う。

況や、非業を、払い給わん事、ましまさざらんや。

されば、念仏を信ずる人は、例え如何なる、病を受くれども、皆これ宿業也。

これよりも、重くこそ、受くべきに、仏の御力にて、これほども、受くる也とこそは、申す事なれ。

我らが、悪業深重なるを滅して、極楽に往生する程の、大事をすら、遂げさせ給う。

まして、この世に、いく程ならぬ、命を延べ、病を助けくる力、ましまあざらんやと申す事也。

されば、後生を祈り、本願を、頼む心も薄き人は、かくの如く圍繞にも、護念にも、預かることなしこそ、善導は宣いたれ。

同じく念仏すとも、深く信を起こして、穢土を厭い、極楽を願うべき事也。

第二十八


 この度輪廻の、絆を、離れる事、念仏に過ぎたることは、有るべからず。

此のかきおきたる、物を見て、そしり謗ぜん輩も、必ず九品の、台に、縁を結び、互いに、順逆の縁、虚しからずして、一佛浄土の、友たらむ。抑も機をいへば、五逆重罪を、選ばず、女人闡提をも,捨てず。

行を云えば、一念十念を、もてす。

これによりて、五障三従を、恨むべからず、此の願を頼み、此の行を励むべきなり。

念仏の力に非ずば、善人なお、生まれ難し。

況や悪人をや。

五念に五障を消し、三念に三従を滅して、一念に臨終の、来迎を、かうぶらんと、行住坐臥に、名号を、称うべし。

時処諸縁に、此の願を頼むべし。あなかしこ〜


第二十九 『一蓮托生(いちれんたくしょう)』


 会者定離は、常の習い、今始めたるに非ず。

何ぞ深く嘆かんや。

宿縁虚しからずば、同一蓮に座せん、浄土の再会甚だ近きに有り。

今の別れは暫くの悲しみ、春の夜の夢の如し。

誹謗共に縁として、先に生まれて、後を導かん、引接縁は、これ浄土の楽しみなり。

それ現生すら、猶もて疎からず、同名号を唱え、同一光明の中にありて、同聖衆の御念をこうぶる、同法尤も親し。

愚かに疎しと思し召すべからず。

南無阿弥陀仏と唱え給えば、住所は隔つと雖も、源空に親しいとす。

源空も、南無阿弥陀仏と唱え、奉るが故なり。

念仏を縡(こと)とせざる人は、肩を並べ、膝を組むと雖も、源空に疎かるべし。

三業に皆異なるが故なり。黒谷源空上人伝 『十六門記』13

 

会者定離はこの世の道理であって、今に始まることではありません。

どうして深く欺く必要がありましょうか。

ずっと以前からの縁が空しいものでないならば、行く末は同じ蓮台に坐ることになりましょう。

浄土での再会も間もないものです。

今のお別れは、ひと時の悲しみであつて、春の夜の夢のようなものです。

念仏の教えが信順されようが誹謗されようが、それぞれを縁として先ずは自らが往生して、後の人たちを導くようにいたしましょう。

引接縁というのは、極楽浄土の「楽」の一つでもあるのです。

私どもはこの現世ですら疎遠な間柄ではなかったのですから、同じ名号を唱え、同じ光明の中に在って、同じ聖衆の護念を蒙るのです。

信仰を同じくしている者は、最も親しい間柄であるのですから、思慮もなく、疎遠となってしまうと思われてはなりません。

南無阿弥陀仏と唱えなされば、たとえ住所は隔たっていても、源空に親しいのです。

というのも、源空もまた南無阿弥陀仏と唱え申し上げているからです。

念仏を亊としない人は、たとえ源空と肩を並べ、膝を交えたとしても、源空には疎遠の人なのです。身・口・意の三業が皆、私とは異なっているからです。

えしゃじょうり(ヱシャヂャウリ)【会者定離】

会うものはかならず別れる運命にあるということ。この世の無常をいう語。*平家‐一〇「生者必滅、会者定離はうき世の習にて候也」 遺教経「世は皆常無し、会えば必ず離るる有り」

しゅくえん【宿縁】

仏語。前世からの因縁。運命。宿因。しゅうえん。すくえん。「前世の宿縁」

いちれん【一蓮】

「いちれんたくしょう(一蓮托生)」の略。

いちれん‐たくしょう(‥タクシャウ)【一蓮托生】 

1 仏語。死後、極楽浄土で同じ蓮華の上に生まれること。 行動、運命を共にすること。

れんだい【蓮台】

蓮華の台座。蓮の花の形につくった仏像の座。転じて、弥陀の浄土に往生する者の身を託すもの。

ひぼう(‥バウ)【誹謗】   

(「ひほう」とも)他を悪くいうこと。そしること。

いんじょう(‥ゼフ)【引接・引摂】

阿弥陀仏や菩薩が念仏の人の臨終にあらわれて浄土に導き、救いとること。いんせつ。

おうじょうようしゅう(ワウジャウエウシフ)【往生要集】 卷上の第6引接結縁(いんじょうけちえん)の楽

一には聖聚来迎(しょうじゅらいこう)の楽、二には蓮華初開(れんげしょかい)の楽、三には身相神通(しんそうじんずう)の楽、四には五妙境涯(ごみょうきょうがい)の楽、五には快楽無退(けらくむたい)の楽、六には引接結縁(いんじょうけちえん)の楽、七には聖聚倶会(しょうじゅくえ)の楽、八には見佛聞法(けんぶつもんぼう)の楽、九には隨心供仏(ずいしんくぶつ)の楽、十には増進仏道(ぞうしんぶつどう)の楽なり。

おうじょうようしゅう(ワウジャウエウシフ)【往生要集】 平安中期の仏書。三巻。源信著。寛和元年成立。鎌倉時代の浄土教の確立を促したばかりでなく、さまざまな面で後世に多大の影響を与えた。

しょうじゅ(シャウ‥)【聖衆】

仏語。菩薩や声聞・縁覚などの群衆。また、極楽浄土の阿弥陀仏と菩薩などの聖者たち。聖主。

しょうじゅ‐らいごう(シャウジュライガウ)【聖衆来迎】 仏語。人の臨終に、西方の極楽浄土から阿弥陀仏が諸菩薩とともに迎えに来ること。

 


第三十 『回向(えこう)』


 当時日ごとの、お念仏をも、かつがつ回向し、まいらせられ候うべし。

亡き人のために、念仏を回向し候へば、阿弥陀仏、光を放ちて、地獄、餓鬼、畜生を、照らし給い候へば、

此の三悪道に、沈んで、苦を受ける者、その苦しみ、休まりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。

大経に

もし三途勤苦の処に在りて、此の光明を見奉らば、皆休息を得て、

又苦悩無し。寿終の後、皆解脱を蒙らんと云えり。『 勅伝 第二十三 』

また現在、それぞれの日課念仏をも、少しずつ(懇ろに)亡くなった人のために振り向けられるがよいでしょう。

亡き人のために念仏を振り向けられれば、阿弥陀仏は光を放って地獄・餓鬼・畜生の三悪道を照らされますから、その悪道に堕ちて苦しみを受けている者は、その苦しみが止んで、命終の後に苦しみの境界からすっかり解放されることになるのです。

ですから、『無量寿経』巻上には、

「もし三悪道の疲れ苦しまなければならない境界にある人が、この阿弥陀彿の光明を見ることができれば、すべて苦しみが止み安らいで、また苦しみ悩むこともなく、命終の後にすべて迷いの束縛から解放されるのだ」と説かれています。

えこう(ヱカウ)【回向・廻向】

仏語。自分の行なった善根功徳をめぐらし、自分や他のものの悟りにさし向けること。善根功徳を、自己の悟りにさし向けることを菩提回向、他のものの利益にさし向けることを衆生回向といい、回向そのものにとらわれないで、そこに真実の理を悟ることを実際回向という。*源氏‐若菜下「さりがたき御ゑかうのうちには」

さんなくどう(‥アクダウ)【三悪道】

(連声(れんじょう)で「たんなくどう」「さんまくどう」とも。「道」は梵gatiの訳語。衆生が業によっておもむく生存の状態、またはその世界をいう)仏語。悪業の結果堕ちる三つの悪道。地獄道、餓鬼道、畜生道。三趣悪。三悪。

だいきょう(‥キャウ)【大経】

仏語。その宗派で依用する大部の経典。天台宗では大般涅槃経、浄土教の諸宗では無量寿経をいう。

さんず(‥ヅ)【三途・三塗】(「途」は道または塗炭の意)仏語。

熱苦をうける火途、刀・剣・杖などで強迫される刀途、互いに相食む血途の三つで、これを三悪道に配し、順次に地獄、餓鬼、畜生に当てる。三悪趣。三悪道。  2 三途の川の渡し場。冥土(めいど)の途中。

三途の=川(かわ)[=大河(たいが)] 仏語。人が死んで冥土に行く途中に越えるという川。川に緩急の異なる三つの瀬があって、生前の罪業によって渡る場所が異なり、川のほとりには鬼形の姥がいて衣を奪い取るという。三瀬川(みつせがわ)。しょうずか。さんずがわ。

くそく(キウ‥)【休息・休足】

のんびりとくつろぐこと。仕事や歩行などをやめて体を休めること。  2 休止すること。とだえること。

えこうほつがん(ヱカウホツグヮン)【回向発願】

自分の修めた功徳を自他の悟りの資とすることを願うこと。

 

 

 


第三十一  『還来度生(げんらいどしょう)』


 左様に、そら言を、たくみて、申し候ふらん人をば、帰りて哀れむべきなり。

左程の者の、申さんによりて、念仏に疑いなし、不信を、発さん者は、云うに足らぬ程の、事にてこそは候はぬ。

大方彌陀に縁浅く、往生に、時到らぬ者は、聞けども信ぜず、行うを見ては、腹を立て、怒りを含みて、妨げんとする事にて候なり。

その心を得て、いかに人申すとも、御心ばかり、動がせ給うべからず。

強(あなが)ちに信ぜざらんは、佛なお力及び、給うまじ。

如何に況や凡夫の力,及び候ふまじき事なり。

かかる不信の衆生を、利益せんと、思うわんに、つけても、とく極楽へ、参りて、悟りを、開きて、生死に、返りて、誹謗不信の者をも、渡して、一切衆生、遍く利益せんと、思ふべき事にて候ふなり。『 勅伝 第二十八 』

それですから、そのように偽りをたくらんでいう人をかえって哀れむペきものです。

その程度の者のいうことですので、念仏するのになんの懸念もありません。

疑いをおこす者は、いうに足りない程度のことでございます。

だいたいが阿弥陀仏に縁が浅く、往生を願うよい磯会にめぐり合わない者は、聞いても信じないで、人が行なっているのを見ては腹を立て、怒りを含んで、さまたげようとするのです。

そのことを心得て、どのように人がいおうとも、お心だけはいいかげんになさってはなりません。

ましてや凡夫というものは力の及ぶものではありません。

このような不信の人びとのために、慈悲をおこし、ためになるようにと思うにつけても、早く極楽へ参って、さとりを開いて、ふたたびこの迷いの世界に帰ってきて非難している不信の人を極楽に渡らせ、一切の生きとし生けるものをあまねく利益を持させようと思いなさることです。



付録
 御歌
 
     
 さえられぬ、光も在るを、おしなべて、へだて顔なる、朝霞かな。

    夏

 我は唯、佛に何時か、あふひぐさ、心の妻に、かけぬ日ぞなき。

    
 阿弥陀仏に、染むる心の、色に出ば、秋の梢の、類ならまし。

    
 雪の内に、佛の御名を称うれば、積もれる罪ぞ、やがて消えぬる。


  仏法に逢いて、身命を捨つといへる事,

仮初(かりそ)めの、色の縁の、恋にだに、合うには、身をも、惜しみやわする。


 勝尾寺にて


 柴の戸に、明け暮れかかる、白雲を、いつ紫の、色に見なさん。(玉葉集)


 極楽往生の行業には、余の行を差し置きて、唯本願の念仏を、勤べしという事を、


阿弥陀仏と、云うより外には、津の国の、浪速のことも、あしかりぬべし。

極楽へ、努めてはやく、出たたば、身の終わりには、参りつきなん。


阿弥陀仏と、心は西にうつせみの,もくけはてたる、声ぞすずしき。

  光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 の心を、


月影の,至らぬ里は,無けれども、ながむる人の,心にぞすむ。(続千載集)

 三心の中の至誠心の心を,


往生は,世に安けれど、皆人の,誠の心、無くてこそせね。 

 睡眠の時、十念を唱ふべしと云うことを、


阿弥陀仏と、十声唱へて、微睡ろまん、長き眠りに、なりもこそすれ。


 上人、手ずから書き付け給へりける、


千とせふる,小松の元を、住処にて、無量寿佛の、迎えをぞまつ。


 おぼつかな、誰か云いけん、小松とは、雲を支ふる、高松の枝。

池の水、人の心に似たりけり、濁り澄むこと、定め無ければ。

生まれては、まず思ひいでん、故郷に、契りし友の、深き誠を。

阿弥陀仏と、申すばかりを、つとめにて、浄土の荘厳、見るぞ嬉しき。

 露の身は、ここかしこにて、消えぬとも、心は同じ、花の台ぞ。

 これを見ん、折々毎に、思いでて、南無阿弥陀仏と、常に唱えよ。

 生けらば念仏の功積もり。死なば浄土に詣りなん。

とてもかくても、この身には、思い、煩う、事ぞなき。

生きている内は念仏の功徳を積み、死ねば必ず極楽往生できる。何にしてもこの身には思い煩うことがないと思えば、いつ死んでも心配がなく、この世に生きている間は思い悩むことがない