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悪しからず、ご容赦ください。

勅修御伝
法然上人ご誕生と父時国の遺言 法然上人のご誕生奇瑞 父時国の死と遺言 原文 1

 この絵巻ものが出来た訳

法然上人行状絵図 巻 1

 夫以(それおもんみれば)本師釈迦如来は、あまねく流浪三界(るろうさんがい)の迷徒をすくはんがために、ふかく平等一子の悲願をおこしましますによりて忽(たちまち)に無勝荘厳の化をかくして、かたじけなく娑婆濁悪の国に入り給しよりこのかた、非生に生を現じて無憂樹(むゆうじゅ)の花ゑみをふくみ、非滅に滅を唱えて、堅固林(けんごりん)の風心をいたましむ。

在世八十箇年、慈雲ひとしく群生におよひ、滅後二千余廻、法水なを三国にながる。教門しなことに、利益これまちまちなり。

そのなかに聖道の一門は、穢土にして自力をはげまし、濁世にありて得道を期す。

但おそらくは、とき澆季(ぎょうき)に及て二空の月くもりやすく、こころ塵縁にはせて三悪のほのほまぬれがたし。

煩悩具足の凡夫、順次に輪廻の里を出ぬべきは、ただこれ浄土の一門のみなり。

これにつきて、諸家の解釈蘭菊美をほしきままにすといへ(え)ども、唐朝の善導和尚、弥陀の化身として、ひとり本願の深意をあらわし、我朝の法然上人、勢至の広現として、もはら称名の要行をひろめたまふ。

和漢国ことなれども化導一致にして、男女貴賎信心を得やすく、紫雲異香往生の瑞すこぶるしげし。念仏の弘通ここに尤さかんなりとす。

しかるに上人遷化ののち、星霜ややつもれり。教誡のことば利益のあと、人やうやくこれをそらんぜす。

もししるしして後代にとどめずば、たれか賢を見てひとしからんことをおもひ、出離の要路ある事をしらん。

これによりてひろく前聞をかんがへ、まことをえらび、あやまりをただして、粗始終の行状を勒(ろく)するところなり。

をろかなる人のさとりやすく、見んものの信をすすめんがために、数軸の画図にあらわして、万代の明鑑にそなふ。

往生をこひねがはん輩、誰か此志を嘉せざらん。

 

 思えばわが本師 お釈迦様は、生死を重ねて迷いの世界をさまよう人々を救うために、隔てなく深い慈悲心によって目覚めさせようとする願いを起こしになった。

 そのために無勝荘厳浄土(むしょうしょうごんじょうど)における教化をやめて姿を隠し、忝(かた)じけなくも汚れと悪行に満ちた娑婆世界(しゃばせかい)に生まれ変わる事とした。

 釈尊は悟りを開いて生死のない境地にあったのに拘(かか)わらず白象に乗って摩耶夫人の胎内に入り、やがて喜びに微笑んでいた無憂樹(むゆうじゅ)の花の下で降誕した。

 そして滅することのないお体であったのに、人身という仮の姿にふさわしく入滅の相を示した。 

折から沙羅樹林の上を吹く風は哀愁の響きをたて、悲しみに耐えかねていた人々の心を一層痛しめた。ご在世の80年の間には、雲のように慈悲心をもって人々をすべて覆い、雨のように等しく広く教化した。

 ご入滅になってから2000余年を経た今日も衰えることなく、仏法の流れはインドから中国をへてわが国まで伝わっている。釈尊が説き給うた法門は八万四千をいわれる程に多くあり、その功徳もまちまちである。

 しかし、大きく分ければ、聖道門と浄土門との2つの収まるが、聖道門は煩悩の世の中で自力によって修行に励み、汚れたこの世で悟りを求める法門である。

 ただし恐らくは末法の時代になって人法二空の真理を観ずる修行に励んででも、必ず迷いの心によって月に雲がかかったように曇り易いであろう。

欲望に執着する煩悩が次々に起こるために地獄、餓鬼、畜生の世界に入る炎の門を通らねばなるまい。

このような煩悩を具足している凡夫が来世に必ず迷いの世界から抜け出させる教えは、ただ浄土門の教えが1つあるだけである。

  この浄土門について多くの学僧たちがいろいろな立場から解釈し、欄菊が美しさを競うように見事な教義をたてている。

その中で唐(中国)の善導大師は阿彌陀佛の生まれ変わりとしてこの世に現れ、仏の本願の真意を懸正し給うた。

わが国の法然上人は勢至菩薩が人々を救いとる姿として現れ、専ら念仏を唱えるという往生の行を広め給うた。

日本と中国では国が違っていても、万民のために教え導き給うことは軌を一にしていた。

そのために男女貴賎を問わず誰でも疑いのない信心を得易く、多くの人々が念仏を唱えるようになった。

人々の臨終に紫雲が棚引いたり、芳香が漂ったという極楽往生の瑞相が各地で多く聞かれるのである。

ここにおいて浄土の法門が全国に広まり念仏を唱える声が津々浦々に聞こえるようになった。

ところが法然上人がご遷化になってからかなりの歳月が経ってしまった。

そのために上人が教え諭した言葉の数々、上人に直接導かれて救われた人々の事跡が人々の記憶から暫らく薄らぐことになった。

もしここで上人の伝記を記して正しい記録を後世に残さなかったならば、誰が先師の事跡を知って見習う気持ちを起こすであろうか?

誰が迷いの世界から抜け出す大切な教えがあることを知るであろうか?

こうしたわけで広く伝承せれてきた話を尋ねて歩き、あらゆる古い文章を求めて吟味し、正しいものを選んで誤りを訂正し、法然上人の生涯にわたる事跡のあらましを記録しようと思うのである。

誰でも判り易くして、本書を読んだ人が信心を深めてもらうために四十八巻の絵巻ものとして著わし、末代までも念仏信仰の手本としたいと願っている。

極楽往生を願う人であれば、必ずやこの志を継いでくれるものと信じている。

ほんし【本師】

根本の導師。おおもとの師。 釈迦如来をさす。  親しい教えの師。  仏門にはいったとき、直接、剃髪・授戒にたずさわった師。


しゃか【釈迦】

アーリア族の刹帝利(クシャトリヤ)、すなわち王族に属する古種族。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)はこの族の出身。

 釈迦牟尼仏のこと。仏教の開祖。世界四聖人の一人。生誕年代には諸説があるが、一説には紀元前四六三年、北方仏教の史料では、四月八日、いまのネパール地方の迦羅(かびら)城城主浄飯王の子として生誕。幼名ゴータマ=シッタルタ。二九歳で生死解脱の法を求めて出家し、三五歳で悟りを得、仏となった。以来、四五年にわたりインド各地を布教。八〇歳の二月一五日入滅。その像は諸仏(如来)の形の基本となったほか、仏伝に基づいた誕生像、降魔像、涅槃像などに作られ信仰された。釈迦牟尼。釈迦文仏。悉達多(しったるた)。悉達太子。

るろう(‥ラウ)【流浪】

あてもなくさまようこと。「流浪の民」

さんがい【三界】

いっさいの衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。すなわち、欲界・色界・無色界。

しゃば【娑婆】

さまざまの煩悩(ぼんのう)から脱することのできない衆生が、苦しみに耐えて生きているところ。釈迦如来が衆生を救い、教化する世界。現世。俗世界。娑婆世界。娑界。

じょくあく(ヂョク‥)【濁悪】

人心がけがれ、悪が満ち満ちていること。五濁と十悪。

ごじょく(‥ヂョク)【五濁】

世の中の五つの汚濁。劫濁(天災、地変の起こること)、見濁(衆生が悪い見解を起こすこと)、命濁(衆生が短命になること)、煩悩濁(衆生の煩悩が盛んなこと)、衆生濁(衆生の果報が衰えること)の五種。五つのにごり。

じゅうあく(ジフ‥)【十悪】

身・口・意の三業(さんごう)が作る一〇種の罪悪。すなわち、殺生・偸盗・邪淫の「身三」、妄語・両舌・悪口・綺語の「口四」、貪欲・瞋恚(しんい)・邪見の「意三」の総称。

むうじゅ【無憂樹】

木の名。釈迦の生母摩耶夫人が、藍毘尼園(らんびにおん)にあったこの木の下で釈迦を生み、安産であったところからの名といい、その花を無憂華という。むゆうじゅ。

しょうどう(シャウダウ)【聖道】

 仏のさとり。 「しょうどうもん(聖道門)」の略。法相・三論・天台・真言宗など、聖道門の宗派の僧。

しょうどう‐もん(シャウダウ‥)【聖道門】 修行して、現世において迷いを断ち、聖者となって、悟りを得ようとする道。また、浄土教以外の諸宗。自力門。難行道。⇔浄土門

じょうど‐もん(ジャウド‥)【浄土門】 阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏してその浄土に往生することを説く教えの総称。⇔聖道門(しょうどうもん)。→浄土教

ぎょうき(ゲウ‥)【澆季】

道徳の薄れた人情軽薄な末の世。末世。澆末。  のちの世。後世。

にくう【二空】

我空と法空。個体としての人も存在の構成要素である法も、ともに空であること。

二空の満月(まんげつ) 二空の妙理を悟って澄みきった心を満月にたとえていう語。

じんえん(ヂン‥)【塵縁】

俗世間的なわずらわしい関係。また、世俗とのつながり。

さんあく【三悪】

(連声(れんじょう)で「さんなく」「さんまく」とも)「さんあくどう(三悪道)」の略。

さんあくどう(‥アクダウ)【三悪道】

(連声(れんじょう)で「たんなくどう」「さんまくどう」とも。「道」は衆生が業によっておもむく生存の状態、またはその世界をいう)仏語。悪業の結果堕ちる三つの悪道。地獄道、餓鬼道、畜生道。三趣悪。三悪。

ぼんのう(‥ナウ)【煩悩】

心を煩わし、身を悩ます心の働き。心身を悩ます一切の精神作用の総称。貪・瞋・痴の三つは三毒と称して、その最も根元的なものとする。

煩悩あれば菩提(ぼだい)あり 迷いがあってはじめて悟りもある。迷わない人は悟りに到達することはありえない。煩悩即(そく)菩提(ぼだい) 煩悩はそのまま悟りの縁であること。煩悩の本体は真実真如にほかならないから、煩悩と菩提とは一体であるということ。煩悩の垢(あか) 絶ちがたい煩悩を、体に生じる垢にたとえていった語。煩悩の犬(いぬ) 煩悩が人につきまとうことを、まといついて離れない犬にたとえていう語。

ぼんぷ【凡夫】(「ぼんぶ」とも)

仏教の道理をまだ十分に理解していない者。  異生。平凡な人。普通一般の愚かな人。  無学な人。つまり文字を知らず、品位のない人(日葡辞書)。

りんね(‥ヱ)【輪廻】

車輪の回転してきわまりないように、衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと。

とうちょう(タウテウ)【唐朝】  唐の朝廷。唐の世。

ぜんどう(ゼンダウ)【善導】

中国初唐の浄土教の僧。終南大師と尊称する。安徽省(あるいは山東省)の人。道綽(どうしゃく)に学んで中国浄土教を大成。主著「観無量寿経疏」「往生礼讚」「般舟讚」。(六一三〜六八一)

みだ【弥陀】   「あみだ(阿弥陀)」の略。

けしん【化身】

仏の三身(法身・応身・化身)の一つで、仏が衆生を救うために、それぞれに応じて人や鬼などの姿で現われたもの。転じて、菩薩や神、高僧が人などの姿で現われたもの。

ほんがん(‥グヮン)【本願】

 本来の願い。もとからの誓願。本懐。

仏菩薩が過去世において、衆生を救済するために起こした誓願。阿弥陀仏の四十八願。本誓(ほんぜい)。

ほうねん(ホフ‥)【法然】

 平安末期から鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱は源空、号は法然房、勅諡は円光大師・明照大師など。法然上人、黒谷上人、吉水上人などと尊称する。承安五年善導の「散善義」を読んで開眼、念仏の人となる。文治二年、大原問答によってその名声を高め、建久九年には「選択本願念仏集」を著して事実上の立宗宣言を行う。建暦元年、「一枚起請文」を書き、まもなく没した。その遺文集に「黒谷上人語灯録」一八巻がある。(一一三三〜一二一二)

ほうねんしょうにんえでん(ホフネンシャウニンヱデン)【法然上人絵伝】 法然の一代記を中心に絵解きしたもの。法然賛仰と浄土信仰宣揚のために種々作られた。嘉禎三年に耽空が撰し、図絵は源光忠の手になる、原名「伝法絵流通」が最も古いが、原本は伝わっていない。そのほか増上寺本、琳阿本、弘願本などがあり、従来の法然伝を集大成したのが後伏見上皇の勅修によると伝える「法然上人行状絵図」四八巻である。

せいし【勢至】

「せいしぼさつ(勢至菩薩)」の略。

せんげ【遷化】

(この世の教化を終えて、その教化を他の世に移すの意)仏語。高僧、隠者などが死ぬこと。入滅。円寂。

せいそう(‥サウ)【星霜】

(古くは「せいぞう」とも)星は一年に天を一周し、霜は毎年降るところから)年月。歳月。「幾星霜」

きょうかい(ケウ‥)【教戒・教誡】

教えいましめること。


法然上人のご誕生

仰上人は、美作国(みまさかのくに)久米(くめ)の南条稲岡庄の人なり。

父は久米の押領使(おうりょうし)漆(うるま)の時国(ときくに)、母は秦氏(はたうじ)なり。

子なきことをなげきて、夫婦こころをひとつにして仏神に祈(いのり)申に、秦氏夢に剃刀(かみそり)をのむと見てすなわち懐妊す。時国がいはく。

汝がはらめるところ、さだめてこれ男子にして、一朝の戒師たるべしと。

秦氏そのこころ柔和にして身に苦痛なし。かたく酒肉五辛をたちて、三宝に帰依する心深かりけり。

つゐに宗徳院の御宇、長承二年四月七日午の正中に、秦氏なやむ事なくして男子をうむ。

時にあたりて紫雲天にそびへ、館のうち家の西に、もとふたまたにして、すゑしげく、たかき椋の木あり。

白旗(しらはた)二流(ふたながれ)とびきたりて、その木ずゑかかれり。鈴鐸(れいたく)天にひびき文彩(もんさい)日にかがやく、七日を経て天にのぼりてさりぬ。

見聞の輩奇異のおもひをなさずということなし。これより彼(かの)木を両幡(ふたはた)の椋(むく)の木となづく。

星霜かさなりて、かたぶきたふれにたれど、異香つねに薫じ、奇瑞たゆることなし。

人これをあがねて、仏閣をたてて誕生寺と号し、影堂をつくりて念仏を修せしむ。

昔応神天皇御誕生の時、八の幡くだる。

正見正語等の八正道に住したまふしるしなりといへり。いま上人出胎の瑞、ことの儀あひおなじ。

さだねてふかきこころあるべし。

所生の小児、字(あだな)を勢至丸(せいしまる)と号す。竹馬に鞭をあぐるよひより、その性かしこくして成人のごとし。ややもすれば、にしの壁にむかひゐるくせあり。天台大師童稚の行状にたがはずなん侍りけり。

 

 

法然上人は美作(みまさか)の国(岡山県北部)久米の南条にある稲岡の荘の人である。

父は久米の押領司として治安維持に当たっていた漆(うるま)の時国(ときくに)で、母は秦氏の出身であった。

子どもがいないことを嘆いていた両親は子宝に恵まれるように心を合わせて神仏に祈っていたが、妻の秦氏は剃刀をのむ夢をみて懐妊したことを知った。

時国は妻に言った。

「そなたが身ごもった子どもは必ず男子であって、何れは朝廷に上って戒を授けるような高僧になるであろう」

秦氏は平常にもまして心が柔和であり、身体に何の苦痛もなかった。酒肉やにんにく等を一切口にしなかったし、三宝に深く帰依していた。

やがて、宗徳天皇の代である長承2年(1133)4月7日の正午近くに、秦氏は苦痛もなく安らかに男子を分娩した。折から空に紫雲が棚引いていた。

屋敷内の家の西方に根元が2つに分かれてこんもり茂った椋の木があったが、二流れの真白い長旗が飛んできて小枝に垂れ下がった。

旗の鈴の音が空一杯に響きわたり、陽に輝く旗が風に棚引いて、大空に模様を綾なしていた。

それから、7日が経つと長旗は天に上って消えてしまった。これを見た人々は誰もが不思議に思ったのである。

その後にこの木は「両幡(ふたはた)の椋の木」と呼ばれるようになった。

何年か経ってこの木は傾いて倒れてしまったが、後にはいつも芳しい香りが漂っていて、めでたいしるしをとどめていた。

人々はこの地を尊んで一寺を建立して「誕生寺」と名づけた。上人の御像を安置した「御影堂」とつくって念仏道場としたのである。

むかし応神天皇(270)のご誕生の時に八流れの旗が舞い降りたことがあった。

これは、天皇が正見正語等の八正道を守った前兆であったといわれている。

いま上人のご誕生に二流れ白旗は飛んできた瑞相も同じことで、必ずや深い因縁があったからでしょう。

生まれた子どもの名前を「勢至丸(せいしまる)」といった。

幼いころ、竹馬にまたがって鞭をあてて遊んでいた。

この頃から、生まれつきの賢さが現れて、時には大人のような振舞いがあった。

どうかすれば、西に向かって座る癖があった。

むかし天台大師が幼い頃、西に向かって座る癖があったように、同じ癖があったわけである。

みまさか【美作】

山陽道八か国の一つ。古くは備前国に属したが和銅六年一国となる。平安時代は荘園が多く、中世は土肥・梶原・赤松・山名氏の抗争ののち、宇喜多氏の所領となる。江戸時代は津山・勝山・鶴田の三藩に分かれ、廃藩置県後三県となり、北条県を経て明治九年岡山県北部となる。作州。

おうりょう‐し(アフリャウ‥)【押領使】 

 平安初期以前、防人(さきもり)、兵士などを監督して所定の場所へ送る臨時の職務の者。 平安時代、反乱があった場合など兵士を率いて鎮圧に向かった官。令外の官で、国司の掾が任命される場合が多かった。平安時代以降、国内の反乱鎮圧、凶賊追討のための常設の官。国司兼任が多かった。疱瘡の腫物の異称。ありょうし。

はた【秦】

(古くは「はだ」か)姓氏。古代の有力帰化系氏族。出自は諸説あるが、おそらく五世紀に渡来した中国人の子孫で、養蚕・機織の技術をもって朝廷に仕え、伴造(とものみやつこ)の一員として秦造(はたのみやつこ)を称したと思われる。一族は畿内一帯に広がり、朝廷の財務にも関与し、天武朝に造(みやつこ)から連(むらじ)に、のち忌寸(いみき)に改姓し宿禰の姓を賜る。

いっちょう(‥テウ)【一朝】

朝廷全体。または朝廷に仕えるすべての人。

かいし【戒師】

戒を授ける法師。戒の師。

ごしん【五辛】

五種の、辛味や臭みのある野菜。大蒜(にんにく)、葱(ねぎ)、韮(にら)、浅葱(あさつき)、辣韮(らっきょう)などの五種をいう。食べることによって起こる色欲や怒りの心などを避けるために、これらを禁じた。五葷(ごくん)。


さんぼう【三宝】

仏と、仏の教えを説いた経典と、その教えをひろめる僧。仏・法・僧。また、仏の教え。仏法。三尊(さんぞん)。

きえ【帰依】

神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぐこと。帰信。「仏法に帰依する」

ちょうしょう(チャウショウ)【長承】

平安時代、崇徳(すとく)天皇の代の年号。天承二年(一一三二)八月一一日改元、長承四年(一一三五)四月二七日保延となる。関白藤原忠通。出典は「史記」の「長承聖治、群臣嘉徳」。

しうん【紫雲】

むらさき色の雲。めでたいしるしとされ、仏がこの雲に乗って来迎するという。

むくのき【椋の木・樸の樹】

ニレ科の落葉高木。本州の関西以西・四国・九州の山地に生え、人家付近にも植えられる。高さ二〇メートルに達する。全体に短い剛毛を密布。樹皮は灰褐色。葉は柄をもち楕円形または卵形で縁に鋭い鋸歯があり、長さ四〜八センチメートル。春、雌雄同株にごく小さな黄緑色の単性花が群がって咲く。果実は卵球形で大豆大。黒く熟し甘味があり生食される。葉は表面がざらつくので物をみがくのに用いる。材は床柱、野球バット、薪炭材などに使われる。漢名はY葉樹で、樸樹は慣用名。むく。むくえのき。


れいたく【鈴・鐸】すず

日本古来の体鳴楽器の一つ。主に金属製の、裂目のある球形の空洞のなかに、銅の球などを入れたものを振ってうち鳴らす。神楽(かぐら)・能の楽器のほか、神社の社頭の鈴、参詣人や巡礼のもつ鈴、装身具用など種々ある。

もんさい【文彩・文采】ぶんさい

あや。もよう。色どり。文章の光彩。

おうじんてんのう(‥テンワウ)【応神天皇】

第一五代天皇。仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后。名は誉田別命(ほむたわけのみこと)。在位中、百済より阿直(あちき)、王仁(わに)らの渡来などがあり、大和朝廷の興隆期にあたる。

はっしょうどう(‥シャウダウ)【八正道・八聖道】

仏語。仏教の基本的な八種の実践法。正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の称。

あざな【字】

中国で、男子が元服の時につけて、それ以後通用させた別名。通常、実名と何らかの関係のある文字が選ばれた。     わが国で、中国の風習にならって文人、学者などが称した、実名以外の名。

てんだい‐だいし【天台大師】 

天台宗の開祖、中国隋代の智(ちぎ)の称号。

ぎょうじょう(ギャウジャウ)【行状】

日々の行ない。身もち。品行。行跡。


父の死と遺言

かの時国は、先祖をたづむるに、仁明天皇の御後西三条右大臣(光公ひかるこう)の後胤、式部太郎源の年、陽明門にして蔵人兼を殺す。

其科(とが)によりて美作国に配流せらる。ここの当国久米の押領使神戸(かんべ)の太夫漆の元国がむすめに嫁して男子をむ(生)ましむ。

元国男子なかりければ、かの外孫をもちて子として、その跡をつがしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号す。

盛行が子重俊、重俊が子国弘が子時国なり。

これによりて、かの時国聊(いささか)本姓に慢ずる心ありて、当庄(稲岡)の預(あずかり)所明石の源内武者定明(げんないむしゃ さだあきら)(伯耆(ほうき)の守の源長明の嫡男、堀河院御在世の滝口なり)をあなづりて、執務にしたがわず、面謁(めんえつ)せざりければ、定明ふかく遺恨して、保延七年の春時国を夜討にす。

この子ときに九歳也。

にげかくれてもののひまより見給ふに、定明庭にありて、箭(や)をはぎてたてりければ、小矢(こや)をもちてこれをいる。

この疵(きず)かくれなくて、事あらわれぬべかりければ、時国が親類のあだを報ぜん事をおしれて、定明逐電して、ながく当庄にいらず。

それよりこれを小矢児となづく。見聞の諸人感嘆せずということなし。

時国ふかき疵をかうぶりて死門にのぞむとき、九歳の小児のむかひていはく。

汝さらに会稽の恥じを思い、敵人をうらむ事なかれ。

これ偏に先世の宿業也。もし遺恨をむすまば、そのあだ世々につきがたるべし。

しかじはやく俗をのがれ家を出て我菩提をとぶらひ、みずからの解脱を求めんにはといひて端坐して西にむかひ、合掌して仏を念じ眠がごとくして息絶えにけり。

 

父時国の先祖は任明天皇の皇太子である西三条の右大臣源の光公に始まる。

その子の式部省に勤めていた者の長男に源の年という人がいて、陽明門で蔵人の兼を殺した。

年はその罪によって美作の国に流された。

その頃久米の押領司に神社の領地を耕していた五位の漆の元国がいた。

源の年は元国の娘と結婚して男子をもうけた。

元国に男子がいなかったので、外孫を後継者としたが、その時に源の姓を改めて漆の盛行と名乗らせた。

盛行の子は重俊といい、重俊の子を国弘といい、国弘の子が時国であった。

時国には家柄を誇る気持ちがあって、生来少しく慢心するところがあった。

同じ頃に稲岡の荘園を管理していたのは、明石の定明といい、伯耆(ほうき)の守の源長明の長男で、堀河の院当時に禁中の管理をしていた滝口の武士の内舎人であった。

時国は定明を見下して支配に服さなかったり、敬意を表しに伺うことをしなかった。

そのために定明は時国を深く恨んでいたが、保延七年(1141)の春、定明は時国に夜討ちを仕掛けた。

その時勢至丸は難を避けて庭に隠れ、ものかげから成行きを窺っていると、定明が庭にいて矢を射ろうとしているのが見えたので、勢至丸は小さな弓矢をとって定明を射た。

矢は狙い通り定明の両眼の間に刺さった。

定明は顏に傷うを受けては夜討ちを仕掛けたことを隠しようもなく、何時かは時国の身寄りの者から仇討ちされると思った。

こうした心配から恐れをなした定明は土地から逃げて行方をくらまし、再び荘園に姿を見せることがなかった。

この事件があってから人々は「勢至丸」を「小矢児」と呼んだ。

またこの事件を見た人々は誰一人勢至丸の勇気を褒めたたえた。

時国は夜討ちで重傷を負い、いよいよ臨終が近いことを悟って9歳の勢至丸を枕もとに呼んで言った。

「おまえは会稽に恥じを思い出して、父の仇を討つために敵人を恨むことがあってはならない。ここで一命を落とすことも前世の因縁である。もしおまえが敵に遺恨を晴らすとすれば、おまえもまた遺恨を受けることになり、この世に仇敵が尽きないこととなる。それより一日も早く俗世間を逃れて出家し、親の私の菩提を弔うとともに、おまえも迷いと苦悩の世界から逃れる教えを求めよ」

と時国はこのように言い終わってから、端坐して西に向かい、合掌して仏を念じながら眠るようにして息を引き取った。

 

にんみょうてんのう(ニンミャウテンワウ)【仁明天皇】

第五四代天皇。名は正良(まさら)。嵯峨天皇の第二皇子。母は皇后橘嘉智子。在位天長一〇〜嘉祥三年。令義解の施行や日本後紀四〇巻の編修などはこの御代。御陵を深草陵というので、深草帝とも。「経国集」に御製詩一首がある。(八一〇〜八五〇)

うだいじん【右大臣】

太政官の官名。太政大臣、左大臣に次ぐ地位で、天皇を補佐して政務を統轄し、左大臣が空席または出仕不能の場合には、政務、儀式を総裁する職。みぎのおとど。

こういん【後胤】     数代の後の子。子孫。後裔。末裔。

しきぶ【式部】       「しきぶしょう(式部省)」の略。

たろう(‥ラウ)【太郎】     長男の称。

ようめいもん(ヤウメイ‥)【陽明門】

平安京大内裏外郭門の一つ。東面の第一門で、近衛大路に通じる。門内に左近衛府、左兵衛府がある。五間、戸三間。はじめ山門と称した。近衛の御門(みかど)。

くらひと【倉人・蔵人】    官倉の出納を担当する人。上代の姓(かばね)の一つ。

かんべ【神戸】

(「かむべ」とも表記)古代、神社に属して租、庸、調や雑役を神社に納めた民戸。じんこ。神封戸。神部。

いささか【聊か・些か】    かりそめであるさま。ほんのちょっと。

まんずる【慢ずる】    自慢する。慢心する。うぬぼれる。

めんえつ【面謁】    貴人に会うこと。目上の人と対面すること。お目にかかること。拝謁。おめみえ。

ほうえん【保延】

平安時代、崇徳天皇の代の年号。長承四年(一一三五)四月二七日改元。保延七年(一一四一)七月一〇日永治となる。

【矢・箭】     矢の古称。

こや【小矢】

ふつうより短い矢。矢束(やつか)の短い矢。矢の長さは一二束(自分のにぎりこぶしで一二)あるのを定めとしたが、それより短い矢。

あざ【痣・疵】

皮膚の一部分に局限する色の変化。その種類は多く、外傷により皮膚の内部で出血することによるもの、内科的な血液病や血管の異常によって生じる紫斑病、先天的異常に基づく色素の増殖や、血管の増殖拡張により皮膚にできた黒褐色、青色、赤色の母斑(ぼはん)などがある。

ちくて(で)ん【逐電】    逃げ去って行方をくらますこと。「悪事を働いて逐電する」