長命寺とは? 法然上人ご法語

法然上人 ご法語  上    

法然上人ご法語 上 選択集(せんちゃくしゅう) 勅修御伝(法然)  
法然上人ご法語 下 浄土宗テキスト    

法然上人のご法語で、三十一日に分けて、毎月○○日にお称えするようになっています。

岩沼さんのご協力でできました!ありがとう!ナムナム  (口語訳?付き)

祝V(^0^)!やっとできあがり?ました! (口語訳) 

費やした?日数 50日     2001/05/08 完成

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第一  (難値得遇)


 それ流浪三界の内、いずれの境に、おもむきてか、釈尊の出世に、会わざりし。

輪廻四生の、間、何れの生を、受けてか、如来の説法をきかざりし。

華厳開講の、むしろにも、交わらず、般若演説の座にも、連ならず、鷲峰説法の、庭にも、望まず、鶴林涅槃の、みぎりにも、至らず。

我舎衛の三億の家にや、やどりけん。知らず地獄八熱の底にや、すみけん。  

恥ずるべしゝ、悲しむべしゝ。


 まさに、今、多生廣劫を、経ても、生まれ難き、人界に生まれ、無量億劫を、おくりても、会い難き、仏教にあえり。

釈尊の在世に、会わざる事は、悲しみなりと、いえども、教法流布に、会うことを得たるは、これ喜びなりと。

たとえば目しいたる亀の、浮き木の、穴に会えるがごとし。


 我が朝に、仏法の、流布せし事も、欽明天皇、雨の下を、しろしめて十三年、みづのえ申の歳、冬十月一日初めて仏法渡り給いし。

其れより先には、如来の教法も、流布せざりしかば、菩提の覚路、未だ聞かず。

ここに我ら、いかなる宿縁にこたえ、いかなる善業によりてか、仏法流布の時に生まれて、生死解脱の道を、聞くことを得たる。

しかるを今、会いがたくして、会うことを得たり。

いたづらに、あかし、暮らして、やみなんこそ、悲しけれ。」 
『勅伝 第三十二』

 迷いの世界で幾度となく生死を繰り返してきたのに、どこの世界にいたためにか釈尊の出世に会えなかったのであろうか

迷妄の世界にさ迷っていて、どんな生き物であったためにか仏の説法を聞かなかったのであろううか?

釈尊の華厳開講の席にも参加出来なかったし、涅槃の演席にも連なることがなかった。

説法の地である霊鷲山の法座にも臨まず、入涅槃の沙羅樹林に馳せ参じなかった。

王舎城にいた9億の者の中で3億の人は釈尊の名前すら知らなかったというが、恐らくこの3億の人の仲間であったのであろう。

それとも八熱地獄の底に沈んでいて仏法を聞かなかったのかも知れない。まことに恥ずかしいことであり、悲しみに耐えないことである。

 正しく限りない長い間を経てから、今や生まれ難い人界に生まれ、永遠に会えなかったかも知れない仏の教えに会うことができたのである。

釈尊がまします時に会わなかったことは悲しみであったも、仏の教えが流布している時代に生まれたことは大きな喜びである。

たとえば海底の盲亀が水面に浮かぶ木の穴に会ったように極めて稀にみる幸せである。

わが国に仏法が流布したのは、欽明天皇が天の下を統治し給うた13年(552)10月1日に百済(くだら)の国から仏法が渡来してからのことである。

それ以前にはわが国に仏の教法がなく、悟りを求める教えを聞いた者がなかった。

いまここに迷いの世界から抜け出す教えを聞くことができたのであるから、日々虚しく明かし暮すようなことがあったとすれば、それこそ悲しい限りである。

さんがい【三界】

いっさいの衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。すなわち、欲界・色界・無色界。

おうしゃじょう(ワウシャジャウ)【王舎城】

古代インド、マガダ王国の首都ラージャグリハの漢名。最初に仏典の編集が行なわれた地。現在のインド北東部、ビハール州のラージュギルにあたる。

きんめいてんのう(‥テンワウ)【欽明天皇】

第二九代天皇。継体天皇の第三皇子。名は天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)。日本書紀によれば、五三九年即位し、都を大和磯城島金刺宮(やまとしきしまのかなさしのみや)にうつす(五三一年即位説もある)。在位三二年の治世中、百済王が仏像、経典を献じ、日本に初めて仏教が渡来。また、任那の日本府が新羅によって滅ぼされた。(五一〇〜五七一)

りょうじゅせん(リャウジュ‥)【霊鷲山】

(梵の訳。禿鷲の頂という山の意)古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にあった山。釈迦が法華経や無量寿経などを説いた所として著名。山中に鷲が多いからとも、山形が鷲の頭に似るからともいわれる。耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。鷲山(じゅせん)。鷲嶺。わしの山。

さらそうじゅ(‥サウジュ)【娑羅双樹】

フタバガキ科の常緑高木。インド北部原産で、日本では温室で栽培される。幹は高さ三〇メートルに達する。葉は互生し有柄の卵状楕円形で先はとがり長さ一五〜二五センチメートル。葉柄の基部には托葉がある。葉腋に径約二センチメートルの淡黄色の五弁花を円錐状に多数集めてつける。果実には長さ五センチメートルぐらいの、萼が生長した翼が五枚ある。材は堅く、くさりにくく、インドの代表的有用材で、建築材、枕木、橋梁、カヌーなどに用いる。樹脂はサール‐ダンマーといい、ワニスや硬膏の原料になる。釈迦が入滅した場所の四方に、この木が二本ずつ植えられていたという伝説からこの名がある。しゃらそうじゅ。さらのき。さらじゅ。しゃらじゅ。

はちねつじごく(‥ヂゴク)【八熱地獄】

仏語。熱と焔で苦しめられる八種の地獄。等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間の八地獄。八大地獄。



第二  (立教開宗)


 おほよそ、仏教多しといえども、所詮、戒定恵の三学をば過ぎず。

所謂小乗の戒定恵、大乗の戒定恵、顕教の戒定恵、密教の戒定恵なり。

しかるに、我がこの身は、戒行において、一戒をも、保たず、禅定において、一つもこれを得ず。

人師釈して、尸羅(しら)清浄ならざれば、三昧現前せずといへり。

又凡夫の心は物に、従いて、移りりやすし。例えば猿猴の枝につたうがごとし。誠に散乱して動じやすく、一心鎮まり難し。

無漏の正智、何によりてか、おこらんや。

もし無漏の智剣なくば、何でか悪業煩悩の、絆を絶たんや。

尸羅(しら)の、絆を断たずば、なんぞ生死繋縛(けばく)の身を、解脱する事をえんや。かなしきかな、かなしきかな、如何せん、如何せん。

 ここに我等如きは、既に戒定恵の三学の器(うつわもの)に非ず。

この三学の他に、我が心に相応する法門ありや、我が身に堪えたる修行やあると、よろづの智者に、求め、諸々の学者に、とぶらいしに、教ふる人もなく、示すに輩もなし。

しかる間、嘆き嘆き、経蔵に入り、悲しみ悲しみ、正教に向かい、手ずから、自ら、開き見しに、

善導和尚の観経の、一心に専ら彌陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名ずく、彼の佛の願に順ずるが故に。

見得て後、

我らが如くの、無智の身は、偏にこの文を、あふぎ、もはら、この理(ことわり)を、頼みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなうべし。」  『 勅伝 第六  』

 凡そ仏の教えは多種多様に分れていても、結局は戒律と禅定と智慧との三学に納まらぬものはない。よくいわれている通り小乗の戒律があり、大乗の戒定慧があり、密教の戒定慧がある。

ところが、わが身は戒律について一戒すら保っているわけでなく、禅定を修めても一度として瞑想の境地に達したことがない。

ある高僧が説いていうには、戒律を保って身心を清浄にしなければ禅定の境地に入れないとしている。

しかし、凡夫の心は見聞するに従って移り易く、決して静まることがない。例えば、猿が枝から枝に飛び移っているようなものである。

まことに散乱して動揺し易い心では、静かに瞑想することができない。

煩悩を断って正しい智慧を求めようとしても、どうして悪業や煩悩の絆を断ち切ることができるのであろうか。

いかにしたならば救われるのであろうか。

ここにわれ等ごときは、すでに戒定慧の三学を修める才覚がない者である。

この三学の外にわが心に相応した法門があるというのであろうか。

わが身に堪え得る修業がどこにあるのであろうか。

多くの学僧に教えを乞い、あらゆる修行者を訪ねてみたが、教えてくれる者もなく、修業を示してくれる人もいなかった。

仏法に見捨てられた身を嘆きながら経蔵に入り、わが身を悲しみながら経典に向かい合い、手を差し伸べて一書を取り出してみると、それは善導大師の観経疏であった。

改めて読み進んでいくと次の一句が目にとまった。

「一心に専ら南無阿彌陀佛と唱え、行住坐臥のいずれの時でも時の長短に関係なく、常に念仏を相続してゆけば、その者は、必ず極楽浄土に往生することができる。

このように念仏を相続することを正定の業という。何故なら阿彌陀佛は念仏往生の本願を成就し給うているから、念仏を唱える者は仏の本願力に乗じて往生できるからである。」

この一文を読み終わって思ったことは、われ等のごとく愚かな者は偏にこの文を仰いで専らこの道理を頼みにして、念々に捨てることなき念仏を相続し、必ず極楽往生できる善根としたいということであった。

かいじょうえ(‥ヂャウヱ)【戒定慧】

仏道修行の三つの要目。「戒」は、善を修め悪を防ぐこと、「定」は、心身の乱れを静めること、「慧」は、真理を証得すること。三学と総称する。

尸羅(しら)     戒律

けばく【繋縛】

迷いの世界につなぎとめて、これから逃れさせないこと。煩悩(ぼんのう)によってしばられること。*愚迷発心集「恩愛の心肝を悩す者は皆是生死囚獄の繋縛たり」

さんまい【三昧】

三摩提・三摩地とも音訳。定・正定・等持などと訳す)雑念を離れて心を一つの対象に集中した状態をいう。この状態に入るとき、正しい智慧が起こり、対象が正しくとらえられるとする。三枚正受。2 精神を統一、集中することによって得た超能力。*平家‐一〇「肉身に三昧を証じて、慈氏の下生をまつ」3 物事の奥義を究め、その妙所を得ること。4 「さんまいば(三昧場)」の略。   さんまいおう‐ざんまい(‥ワウ‥)【三昧王三昧】 (三昧の中の王の意)仏語。最上の三昧。浄土門では念仏を、禅門では坐禅をいう。三昧王。

むろ【無漏】

(「漏」は煩悩の意)仏語。煩悩を離れたこと。また、その境地。⇔有漏(うろ)

ぼんのう(‥ナウ)【煩悩】

心を煩わし、身を悩ます心の働き。心身を悩ます一切の精神作用の総称。貪・瞋・痴の三つは三毒と称して、その最も根元的なものとする。

ぜんどう(ゼンダウ)【善導】

中国初唐の浄土教の僧。終南大師と尊称する。安徽省(あるいは山東省)の人。道綽(どうしゃく)に学んで中国浄土教を大成。主著「観無量寿経疏」「往生礼讚」「般舟讚」。(六一三〜六八一)

かんぎょう‐しょ(クヮンギャウ‥)【観経疏】 観無量寿経に対する注釈書。

観経四帖疏。四巻。観経玄義分、序文義、定善義、散善義の四帖よりなる。善導の著。四帖疏とも。

しょうじょう‐ごう(シャウヂャウゴフ)【正定業】 

浄土教で浄土の往生を決定する行為のことで、阿弥陀仏の名号を唱えること。称名念仏すること。じょうごう。

ほんがん(‥グヮン)【本願】

本来の願い。もとからの誓願。本懐。2 仏語。仏菩薩が過去世において、衆生を救済するために起こした誓願。阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二願など。本誓(ほんぜい)。3 寺院、塔、仏像などを創立し、法会(ほうえ)を発起すること。また、その人。施主。本願主。



第三   (聖淨二門)


 ある人、上人の申させ給うお念仏は念々ごとに佛の御心に、叶い候らんなど申しけるを、いかなればと、上人返し、問われければ、

智者にておわしませば、名号の功徳をも、詳しく、しろしめし、本願の様をも、明らかに、御心得ある故にと、申しけるとき、汝本願を信ずること、まだしかりけり。

彌陀如来の、本願の名号は、木こり、草刈り、、菜摘み、見ず汲む、類如きのもの、内外ともに、かけて、一文不通なるが、称ふれば、必ず生まると信じて、真実に願い、常に念仏申すを、最上の機とす。

もし智恵を、もちて、生死をはなるければ、源空いかでか、かの聖道門を捨てて、この浄土門に、趣くべきや。

聖道門の修行、智恵を極めて、生死を、離れ、浄土門の修行は、愚痴に帰りて、極楽に、生まれると、知るべしとぞ、おうせられける。」  『 勅伝 第二十一 』

また、ある人が上人にいった。

「上人が唱えているお念仏は、その一声一声が仏のみ心に叶っていることでありましょう」 

上人はそれはどういう意味であるか?と尋ねますとその人はいった。

「上人は勝れた学僧ですから念仏の功徳を詳しく知っておられるでしょうし、本願の意味も十分に心得ておられるからです」 

すると、上人はいった。「貴房は阿彌陀佛の本願を信ずる心が浅いのである。

本願の念仏は賤(いや)しい職業とされている木こり、草刈り、菜摘み、水汲みのような人でも、知識も乏しく暮らしが豊かでない者であっても、読み書きのできない者であっても念仏を唱えれば必ず極楽往生ができるのである。

本願を信じて真実の心から往生を願い、常に念仏を唱える者こそ必ず往生できる最上の人である。

もし智慧を極める修業によって迷いの世界から抜け出すことができるものであれば、何んで聖道門を捨てて浄土門を選ぶことがあったであろうか?

聖道門の修業は智慧を究めることによって次第に生死の世界を離れようとするものであり、浄土門の修業は智慧や才覚を加えることをせずに、本願力に身をまかせて念仏を唱え、極楽往生して直ちに生死の世界から離れるのであると知るべきである。」といった。

しょうどう‐もん(シャウダウ‥)【聖道門】 

修行して、現世において迷いを断ち、聖者となって、悟りを得ようとする道。また、浄土教以外の諸宗。自力門。難行道。⇔浄土門

じょうど‐もん(ジャウド‥)【浄土門】 

阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏してその浄土に往生することを説く教えの総称。⇔聖道門(しょうどうもん)。→浄土教

げんくう 源空  ほうねん(ホフ‥)【法然】

 平安末期から鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱は源空、号は法然房、勅諡は円光大師・明照大師など。法然上人、黒谷上人、吉水上人などと尊称する。承安五年善導の「散善義」を読んで開眼、念仏の人となる。文治二年、大原問答によってその名声を高め、建久九年には「選択本願念仏集」を著して事実上の立宗宣言を行う。建暦元年、「一枚起請文」を書き、まもなく没した。その遺文集に「黒谷上人語灯録」一八巻がある。(一一三三〜一二一二)

ほうねんしょうにんえでん(ホフネンシャウニンヱデン)【法然上人絵伝】 勅修御伝(勅伝)

法然の一代記を中心に絵解きしたもの。法然賛仰と浄土信仰宣揚のために種々作られた。嘉禎三年に耽空が撰し、図絵は源光忠の手になる、原名「伝法絵流通」が最も古いが、原本は伝わっていない。そのほか増上寺本、琳阿本、弘願本などがあり、従来の法然伝を集大成したのが後伏見上皇の勅修によると伝える「法然上人行状絵図」四八巻である。


 


第四  (出世本懐)


 念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して、発し給ひたる、事なれば、人を、嫌うことは、候はぬなり。

佛の御心は、慈悲を、もて、体とすることにて候ふ也。

されば観無量寿経には、仏心というは、大慈悲これなりと説かれて候。

善導和尚この文を受けて、この平等の慈悲を、もては、普く一切を摂すと、釈し給へり。一切の言、広くして、もるる人候ふべからず。

されば、念仏往生の願は、これ彌陀如来の、本地の誓願也。世の種々の行は本地の誓いに非ず。

釈迦も、世に出で給ふ事は、彌陀の本願を、説かんと思し食す御心にて候へども、衆生の機縁に随ひ給ふ日は、これ随喜の法也。

佛の、自らの、御心の底には候はず。


されば、彌陀にも、利生の本願、釈迦にも、出世の本懐なり。

世の種々の行には、似ず候也。」  『 勅伝 第二十八 』

 念仏往生の本願は阿彌陀佛が人を区別しない平等の慈悲の上に立っておこし給うた誓願であるから、どのような人であっても差別しないのである。

仏のみ心は慈悲を本体となし給うているのである。だから、観無量寿経に、仏の御心は人々を救わずにはいられない大慈悲心であると説かれている。

善導大師はこの一句を、仏は人々を区別しない平等の慈悲心によって遍く一切の人々を救い給うと説いている。

大師が一切の人々といっているのは、広くすべての人々を含んでいて洩れる者は一人もいないということである。

しかも、念仏往生の願は阿彌陀佛が仏となるい給うために成就した誓願である。その他のいろいろな修行は仏になってから説いた行である。

釈尊はこの世に現れ給うたのは阿彌陀佛の本願を説いて、念仏の行を勧めようとするみ心からであった。

しかし、人々の能力に従っていろいろな修行を説き給うたので、これを随喜の法といっている。決して釈尊ご自身の心底から説き給うた教えではない。

このように念仏は阿彌陀佛がすべての人々を救うためにたて給うた本願の行であり、釈尊にとっては出世の本懐の教えである。

その他の様々な修行とは比較にならないのである。

ねんぶつ‐おうじょう(‥ワウジャウ)【念仏往生】 

仏を念じて往生すること。一般に、阿弥陀仏を信じ一心に念仏を唱えて極楽往生すること。

せいがん(‥グヮン)【誓願】

仏菩薩が、一切の衆生の苦しみを救おうと願って、必ずこれを成しとげようと誓うこと。四弘誓願(しぐぜいがん)はその共通した願で総願といい、弥陀(みだ)の四十八願、薬師の十二願、釈迦の五百大願などは別願という。本願。

じひ【慈悲】

衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。

ほんじ(‥ヂ)【本地】

本地垂迹説によるもので、世の人を救うために神となって垂迹したその本の仏菩薩をいう。神はこの世に仮に姿を表した垂迹身で、仏菩薩をその真実身である本体とするもの。たとえば、天照大神の本地は大日如来だとする。

かんむりょうじゅきょう(クヮンムリャウジュキャウ)【観無量寿経】

大乗経典の一つ。一巻。良耶舎(きょうりょうやしゃ)が元嘉一九年(四四二)までに漢訳。浄土三部経の一つ。浄土往生の方法として無量寿仏(阿弥陀仏)や、その極楽浄土などに対する一六の観想を説いた経。観無量寿仏経。観経。

りしょう(‥シャウ)【利生】

(「利益衆生」の意) 仏菩薩が衆生を救うこと。また、その恵み。

しゅっせ【出世】

仏が衆生を救うために仮にこの世に現れ出ること。しゅっせい。

ほんかい(‥クヮイ)【本懐】

(古くは「ほんがい」)かねてからの願い。本意。本望。「本懐を遂げる」

 


第五  (選択本願)                         


 本願と云うは、阿弥陀仏の、未だ佛に成らせ給はざりし昔、法蔵菩薩と、申ししいにしえ、佛の国土を、清め、衆生を成就せんがために、世自在王如来と御前にして、四十八願を、おこし給いしその内に、一切衆生の往生の為に、一つの願を、興し給えり。

これを念仏往生の本願と申す也。

すなわち無量寿経の上巻に云はく、もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚を取らじと。

善導和尚、この願を釈して、宣はく、もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称する事、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。

彼の仏、今現に世に在して成仏し給へり。當に知るし、本誓の重願虚しからざることを。

衆生称念すれば、必ず往生を得ると

念仏というは仏の法身を、臆念するにもあらず、仏の相好を観念するにも非ず、

ただ心をいたして、もはら、阿弥陀仏の名号を、称念する、これを念仏とは申すなり。

故に称我名号といふなり。念仏の他の、一切の行は、これ彌陀の本願に、あらざるがゆえに、たとひ目出度き、行なりといへども、念仏には、及ばざるなり。

大方、その国に、生まれんと、おもはんものは、彌陀の誓願に、従うべきなり。    『 勅伝 第二十五 』

 本願というのは阿彌陀佛がまだ仏とならずに法蔵菩薩として修行していた昔に、建立常然にして無衰無変の清浄な国土を建立し、すべての人々を救って成仏させるために世自在王如来という仏の前で四十八願をおこしたが、そのすべての人々を極楽往生させるために1つの願をたて給うたのである。

これを念仏往生の本願という。

即ち無量寿経の上巻に、次のように説かれている。

「もし私が仏になったらならば、十方の世界にいるいかなる者でも真実の心から深く信心をおこし、わが浄土に往生したいと願い、念仏を相続して唱える者から十念を唱えた者に至るまで必ず往生させるでありう。

もしこれができなければ、私は仏にはならない」

善導大師はこの願文を次のように説明している。

「もし私が仏になったならば、十方の世界にいるいかなる者でも南無阿彌陀佛と唱えるならば、たとえ臨終に十声の念仏を唱えた者に至るまでが、もし浄土に往生できなければ、私は仏にはならない。

このように本願をたてた阿彌陀佛は現に極楽浄土にましまして仏になり給うている。

仏になり給うたことは四十八願のすべてが成就されていることと十分に知らねばならぬ。

もし人が念仏を唱えるならば、必ず極楽往生ができるのである。」

念仏というのは仏の本体を念じ続ける修行でもなく、仏の勝れたお姿を観想する修行でもない。

ただ真実の心で専ら阿彌陀佛の名号を唱えることを念仏というのである。

だからこそ善導大師は念仏とは称我名号であるといっているのである。

念仏の外の一切の修行は、阿彌陀佛の本願にない修行であるから、たとえどのように勝れた修行であっても念仏には及ばないのである。

凡そある仏の国土に往生したいと願う者ならば、その仏の誓い給うた修行をなすべきである。

従って阿彌陀佛の極楽浄土に往生したいと願う者ならば、阿彌陀佛の本願に従って修行すべきである。

ほうぞう‐びく(ホフザウ‥)【法蔵比丘】 

阿弥陀如来が世自在王仏のもとにあって出家した、その修行中の、仏にならない以前の名。法蔵菩薩。

しゅじょう(‥ジャウ)【衆生】

(梵jantusattvaなどの訳語。生存するものの意) 迷いの世界にあるあらゆる生類。仏の救済の対象となるもの。いきとしいけるもの。有情(うじょう)。群生。

しじゅうはち‐がん(シジフハチグヮン)【四十八願】 


阿弥陀如来が法蔵比丘と称した修行時代に、一切の衆生を救うために立てた四八の誓願。無量寿経に説く。

おう‐じょう【往生】

現世を去って他の仏の浄土に生まれること。特に、極楽浄土に往って蓮華の中に生まれ変わること。*霊異記‐上・二三「父母に孝養すれば、浄土に往生す」  現世を去って弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)や観世音菩薩の補陀落(ふだらく)世界などに生まれること。  現世で弥陀の願力によって真実不退の信心を得ること。  現世で弥陀の浄土に生まれることが約束される即身成仏のこと。

むりょうじゅ‐きょう(ムリャウジュキャウ)【無量寿経】 

浄土宗および真宗の根本経典。浄土三部経の一つ。魏の康僧鎧の訳とされてきたもの。上巻には阿弥陀の四八の願とその修行によってえられた浄土の荘厳を説き、下巻に衆生の極楽往生の相などを説く。

しょうがく(シャウ‥)【正覚】

(「無上等正覚」の略)仏語。正しい仏の悟り。等正覚。

 




第六  (五劫思惟)


 酬因感果(しゅういんかんか)の、理を、大慈大悲の御心の、うちに思惟して、年序そらに、つもりて、星霜五劫に、およべり。

しかるに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を、巡らして思惟委したまえり。

しかも、我別願を、もて浄土に居(こ)して、薄地低下(はくじていげ)の、衆生を、引導すべし。

その衆生の、業力によりて、埋まる、といわば、かたかるべし。

我、須く、衆生のために、永劫(ようごう)の修行を、おくり、僧祇(そうぎ)の苦行を、巡らして、万行万善の果徳円満し、自覚覚他の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、その成就せん所の、万徳無漏の、一切の功徳を、もて、我が名号として、衆生に、称えしめん。

衆生もし、これにおいて、心をいたして、称念せば、我が願に、答えて、生まるる事を、得べし。『 勅伝 第三十二 』 

阿彌陀仏は修行によって果報を受ける道理の上にたって、しかも慈悲のみ心から凡夫往生の道を思惟し、年数を重ねて修行し、五劫という年月を経て仏となり給うた。

しかも凡夫の誰でもが修行できる教法を思惟し給うた。

そのために次のように誓い給うた。

「われは本願を成就して極楽浄土に住し、どのように劣った凡夫でも導いて往生させるであろう。

もし善根を積んだ果報によって往生できるとすれば、恐らく凡夫は往生し難いであろう。

われはいかなる凡夫でも往生できるように期間がいかに長くとも修行を続け、どのような苦行でも励み勤め、一切の修行と一切の善行を完遂して功徳を得るであろう。

菩薩としての自覚覚他の修行を成就し、それによって仏となって一切の完全無欠な徳を具え、一切の功徳をわが名号の中に具えた上で人々に念仏を唱えさせるであろう。

もし人がわが願いを深く信じて念仏を唱えれば、その者はわが願いに応えて往生できるであろう。

しゆい【思惟】

考えめぐらすこと。思いはからうこと。しい。

こう(コフ)【劫】

きわめて長い時間。一般に、天人が方四十里の大石を薄衣で百年に一度払い、石を摩滅しても終わらない長い時間といい、また、方四十里の城に芥子(けし)を満たして、百年に一度、一粒ずつとり去り芥子はなくなっても終らない長い時間という。*宇津保‐俊蔭「知る人もなきに天の下にとどめ給て、こふの変はるまでおとづれ給はぬを」

ほうべん(ハウ‥)【方便】

仏教で、下根(げこん)の衆生を真の教えに導くために用いる便宜的な手段。また、その手段を用いること。法便。

そうぎ【僧祇】

釈迦の滅後、洞窟内で仏典の編纂を行った弟子集団を上座部というのに対し、洞窟外で編纂した弟子集団をいう。

仏教を修行する出家の集まり。

かとく(クヮ‥)【果徳】

修行の結果得られる、果としての徳のこと。

じかく【自覚】

三覚の一つ。自ら迷いを断って悟りをひらくこと。⇔覚他

かくた【覚他】

仏語。自ら悟った真実の法を説いて他を悟らせ、生死の迷いから解放させること。⇔自覚

むろ【無漏】

(「漏」は煩悩の意) 煩悩を離れたこと。また、その境地。⇔有漏(うろ)

うろ【有漏】

(「漏」は煩悩の意) 煩悩のあること。また、三有漏の一つ「有有漏」を特にいう場合もある。*梁塵秘抄‐二「うろの此の身を捨てうてて」   有漏の身(み) 煩悩から離れられない身。凡夫の身。

 


 

第七   (諸佛證誠)


 六方恆沙の諸佛、舌を述べて、三千世界に、おほひて、もはら、ただ彌陀の、名号を唱へて、往生すといふは、これ真実なりと、證誠したまふなり。

これまた念仏は、彌陀の本願なるが故に、六方恆沙、これ證誠し給ふ。

余の行は、本願にあらざるがゆえに、六方恆沙の諸佛、證誠し給はず。

これにつけても、よくよくお念仏候うて、彌陀の本願、釈迦の付属、六方の諸佛の護念を、深く、かうぶらせ、給ふべし。

彌陀の本願、、釈迦の付属、六方の諸佛の護念、いちいちに虚しからず。

この故に、念仏の業は、諸行に優れたるなり。   『 勅伝第二十五 』

六方の世界にまします無数の仏たちは、それぞれの世界において全世界を覆うような広くて長い舌を出し、仏の言葉に誤りがないことを示しながら、専ら念仏を唱えれば必ず往生できるという教えは真実であることを証明し給うている。

これもまた念仏が阿彌陀佛の本願の行であるから、六方の無数の仏が異口同音に証明し給うたのである。その他の行は本願でないから六方の諸仏が証明給わぬのである。

それにつけてもよくよく念仏を唱え阿彌陀佛の本願、釈尊の委嘱に応え。

六方世界の仏たちの護念を被るようにしなくてはならない。

念仏は阿彌陀佛の本願の行であり、釈尊が委嘱した法門であり、六方世界の諸仏が証明し護念し給う行であることは、みな経文に説かれている通りである。

こうしたわけで念仏は諸行の中で最も勝れた行なのである。

ろっぽう(ロクハウ)【六方】

東西南北の四方と上下の称。

さんぜん‐だいせんせかい【三千大千世界】

宇宙についての単位ともいえるもので、大千世界の別称。全宇宙は無数の三千大千世界からなるとする。仏教では、須弥山(しゅみせん)を中軸に、日・月・四大州・四大海・六欲天などを含めた広大な範囲を一世界とし、これの千倍を小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界という。大千世界はその中に、小・中・大の三種の千世界を含んでいるから、三千大世界ともいう。三千世界。三千界。三界。三千。一大三千大千世界。一大三千界。

しょうじょう(‥ジャウ)【証誠】

真実であると証明すること。

しゃか【釈迦】

アーリア族の刹帝利(クシャトリヤ)、すなわち王族に属する古種族。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)はこの族の出身。

釈迦牟尼仏のこと。仏教の開祖。世界四聖人の一人。生誕年代には諸説があるが、一説には紀元前四六三年、北方仏教の史料では、四月八日、いまのネパール地方の迦羅(かびら)城城主浄飯王の子として生誕。幼名ゴータマ=シッタルタ。二九歳で生死解脱の法を求めて出家し、三五歳で悟りを得、仏となった。以来、四五年にわたりインド各地を布教。八〇歳の二月一五日入滅。その像は諸仏(如来)の形の基本となったほか、仏伝に基づいた誕生像、降魔像、涅槃像などに作られ信仰された。釈迦牟尼。釈迦文仏。悉達多(しったるた)。悉達太子。

ごねん【護念】

仏が衆生を心にかけて守護すること。また、守護しようと念じていること。

ふぞく【付属・附属・付嘱】

師が弟子に仏法の奥義を伝授して、後の世に伝えるように託すること。

ねんぶつ【念仏】

仏を憶念すること。三念・六念などの一つ。  特に阿弥陀仏を念ずること。これには理観と事観と口称の三つが含まれるが、通常、南無阿弥陀仏の六字を口に唱える口称の意に用いられる。ねぶつ。

 



第八   (萬機普益)


 浄土一宗の、諸宗にこえ、念仏一行の、諸行に、勝れたりと、いうことは、萬機を攝する、かたをいうなり。

理観、菩提心、読誦大乗、真言、止観等、いづれも、佛法の、愚かに、在すにはあらず。

みな生死滅度の、法なれども、末代に、なりぬれば、力、及ばず。行者の、不法なるによりて、機が、及ばぬなり。

時を云えば、末法万年の、後、人寿十歳に、つづまり、罪をいへば、十悪五逆の罪人なり。

老少男女の、ともがら、一念十念の、類に、到るまで、皆これ摂取不捨の、誓いに、隠れるなり。

この故に、諸宗に越え、諸行に、優れたりと申すなり。  『 勅伝第四十五 』

浄土宗が諸宗よりも勝れ念仏の一行が諸宗より勝れているということは、どのような者でもすべて救われるということである。

各宗の修行には心を静めて真理を観想したり、悟りを求める心を起こしたり、経典を読誦したり、真言陀羅尼を唱えたり、精神を統一したりする方法があるが、何れも勝れた仏法であって疎かにしてはならない。

みなこの世で迷いの世界から抜け出して悟りを求める修行であるが、末法の世となったために修行者の力が及ばないのである。

修行者が如法に修行できないのは、その者が能力が足らないからである。

今の時代をみると末法万年の後に人の寿命が十歳に縮まったような時代であり、罪からいえば誰もが十悪五逆を犯した罪人にも等しいのである。

しかし、このような時でも老若男女を問わず、念仏を唱えさえすれば一念十念の念仏しか唱えなかった者に至るまで、一人も漏れることなく仏の本願力によって往生できる。

こうしたわけで浄土宗は諸宗より勝れているし、念仏の一行は諸行より勝れているというのである。

じょうど‐しゅう(ジャウド‥)【浄土宗】 

平安末期、法然房源空が開いた浄土教系の宗派。無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経を基本の経典とし、中国の善導に依りどころを置いて、難易二道、聖浄二門の対立を通して安元元年の春、もっぱら南無阿弥陀仏の名号を念仏すれば極楽浄土に往生できると説き、戒律や造寺造仏の不要を主張した。その著「選択本願念仏集」は立教開宗の書とされる。浄土専念宗。念仏宗。

いっしゅう【一宗】

宗教、主に仏教の一つの教義または宗派。

しょしゅう【諸宗】

多くのいろいろな宗派、または宗旨。主に仏教でいう。

ねんぶつ【念仏】

仏を憶念すること。三念・六念などの一つ。   特に阿弥陀仏を念ずること。これには理観と事観と口称の三つが含まれるが、通常、南無阿弥陀仏の六字を口に唱える口称の意に用いられる。ねぶつ。

しょぎょう(‥ギャウ)【諸行】

浄土教で、念仏以外のすべての修行。

りかん(‥クヮン)【理観】

普遍的な真理そのものを観ずること。また、心眼をもって自己の心を内観すること。天台宗でいう語。

ぼだいしん【菩提心】

さとりを得ようと努める心。大乗では特に利他を強調し、さとりを求めるとともに、求めることで世の人を救おうとする心にいう。  浄土宗で、極楽浄土に生まれたいと願う心。

どくじゅ【読誦】

(「じゅ」は「誦」の呉音。「読」は目で見てよむこと、「誦」はそらで唱えること) 声を出して経文をよむこと。読経(どきょう)。

だいじょう【大乗】

(「大」は広大無限でもっともすぐれた意、「乗」は悟りの彼岸へ到達させる乗物の意)仏語。後期仏教の二大流派の一つ。小乗仏教が修行による個人の解脱を説いたのに対して、利他救済の立場から広く人間全体の平等と成仏を説き、それが仏の教えの真の大道であるとする教え。小乗のように消極的・形式的でなく、むしろ内的・精神的であり、その世界観・人生観も積極的・活動的であるとされる。中国・日本に伝わった仏教の宗派は、ほとんどこれに属する。大乗仏教。大乗教。

しんごん【真言】

仏菩薩などの、いつわりのない真実のことば。種々の異名があり、明(梵vidyaの訳)・陀羅尼(梵dhDra」Lの訳)・呪などともいう。明は真言のはたらきが無明煩悩を破するに比したもの、また身に現ずるものを明、口に説くものを真言陀羅尼という。陀羅尼は記憶の意で、真言はその記憶の方便となるところから、陀羅尼といわれるが、また真言の長いものを陀羅尼、短いものを真言といい、一字二字などのものを種子という。ただし普通は互いに混用する。呪はこれを誦するとき、霊験が現れるところからいう。

しかん(‥クヮン)【止観】

雑念を止めて、心を一つの対象に集中し、正しい知慧を起こし、対象を観ること。天台宗がもっとも重視する修行実践法。  天台宗の異称。

まっぽう(‥ポフ)【末法】

三時の一つ。釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期で、仏の教えがすたれ教法だけが残る最後の時期とされ、一万年の間とする。日本では正法・像法各千年の後、永承七年に末法にはいったとする。末法時。  

まっぽう‐しそう(マッポフシサウ)【末法思想】 

仏教における一種の歴史観。釈迦の入滅後千年または千五百年、あるいは二千年後に仏法が衰え社会に混乱が起こると考えたもの。わが国では平安初期すでに現れているが、仏滅年次を周の穆王五三年とし、仏滅後二千年とする考えが固定した平安中期から鎌倉期にかけて流行し、法然・親鸞・日蓮等による新仏教の基盤となった。

じゅうあく(ジフ‥)【十悪】

身・口・意の三業(さんごう)が作る一〇種の罪悪。すなわち、殺生・偸盗・邪淫の「身三」、妄語・両舌・悪口・綺語の「口四」、貪欲・瞋恚(しんい)・邪見の「意三」の総称。

ごぎゃく【五逆】  「ごぎゃくざい(五逆罪)」の略。  ごぎゃく‐ざい【五逆罪】 

五種のもっとも重い罪悪。一般には、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることの五つをいい、これを犯すと無間地獄(むげんじごく)に落ちるとされ、五無間業と呼ばれる。また、別に「大薩遮尼乾子所説経‐巻四」に説く大乗特有のものがある。

せっしゅ【摂取】  @おさめとってまもること。仏が衆生を救うこと。A欲するところを選び出して、おさめとること。

せっしゅ‐ふしゃ【摂取不捨】  仏が衆生を救いとって、見捨てないこと。弥陀の救済をいう。


第九   (安心)                        


 念仏の行者の、存じ候ふべき様は、後世を、畏れ、往生を、願いて、念仏すれば、終わるとき、必ず来迎せさせ給う由存じて、念仏申すより外の事候はず、

三心と申し候ふも重ねて、申す時は、ただ一つの願心にて候なり。その願う心の、偽らず、飾らぬ方をば、至誠心と申し候。

この心の実にて、念仏すれば臨終に来迎すという事、一念も、疑はぬ方を、深心とは申し候。

この上、我が身も、彼の土へ、生まれんと、思い、行業をも、往生の為と、向くるを、廻向心とは申し候なり。

この故に、願う心、偽らずして、げに往生せんと、思い候へば、自ずから、三心は具足する事にて候なり。   『 勅伝第二十四 』

念仏の行者が心得ているべきことは来世に悪道におちることを恐れて極楽往生を願い、念仏を唱えれば命終わる時に仏が来迎し給うことを信じ、念仏を唱えることとの外には何もないのである。

念仏を唱える時に具える三心ということを一言でいえば、往生したいと願う心一つになる。

往生を願う心に偽りがなく人目を飾る心のないことを至誠心というのである。

誠の心で往生を願って念仏を唱えれば、臨終に仏が来迎し給うことを疑わずに信ずる心を深心というのである。

その上でわが身も極楽浄土に往生したいと願い、すべての善根功徳を往生のために振り向けることを廻向発願心というのである。

従って往生を願う心に偽りがなく、本当に往生したいと願って念仏Tを唱えれば、自然に三心が具足される。

ぎょうじゃ(ギャウ‥)【行者】

仏道を修行する人。念仏の人を念仏行者、真言を行ずる人を真言行者などという。修行者。

ごせ【後世】

生まれかわった後の世。後生(ごしょう)。来世。  死後の世界で幸福に暮らすこと。後世の安楽。

らいこう【来迎】

念仏行者の臨終に、阿弥陀仏が聖衆とともに迎えに来て浄土に連れて行くこと。御来迎。

さんじん【三心】

極楽往生を得るのに必要とされる三種の心で、「観無量寿経」に説く真に浄土を願う至誠心、念仏によって往生を得ると深く信ずる深心、念仏の功徳をすべて回向して、往生したいと願う回向発願心

しじょうしん(シジャウ‥)【至誠心】

三心の一つ。仏を信ずる、汚れない真心。特に阿弥陀仏を信じ極楽往生を願う真心。

りんじゅう【臨終】

死に臨むこと。死にぎわ。いまわのきわ。末期(まつご)。また、死ぬこと。

じんしん【深心】

三心の一つ。阿弥陀仏の本願の救いを深く信じて疑わない心。

えこうほつがん(ヱカウホツグヮン)【回向発願】

自分の修めた功徳を自他の悟りの資とすることを願うこと。

ぐそく【具足】

(―する)物事が十分に備わっていること。揃い整っていること。



第十   (一紙小消息)


 末代の衆生を、往生極楽の機に、当ててみるに、行少なしとても、疑うべからず。一念十念に足りぬべし。

罪人なりとても、疑うべからず、罪根深きをも、嫌うはじと宣えり。時下れりとても、疑うべからず。

法滅以後の衆生、なお、もて往生すべし。況や近来をや。

我が身悪しとても、疑うべからず。

自信はこれ、煩悩具足せる凡夫也と宣えり。

十方に浄土多けれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の、生る、故也。

諸佛の中に彌陀に帰し、奉るは、三念五念に到るまで、自ら来迎し賜う故也。

諸行の中に念仏を用ふるは、彼の仏の本願なる故也。

今彌陀の本願に乗じて、往生しなんに、願として成ぜすという事有るべからず。

本願に乗ずることは信心の、深きによるべし。

受け難き、人身を受けて、遭いがたたき本願に遭いて、興し難き道心を興して、離れ難き、輪廻の里を離れて、生まれ難き淨土に、往生せん事、悦びの中の悦び也。

罪は十悪五逆の者も生まると信じて、小罪をも、犯すさじと思うべし。

罪人なお生る、況や善人をや。

行は一念十念なお、虚しからずと信じて、無間に修すべし。

一念なお生る、況や多念をや。

阿弥陀仏は不取正覚の言葉を成就して、現に彼の国に、在せば、定めて命終の時は来迎し給はん。

釈尊は善哉、我が教えに従いて、生死を離れると知見し給ひ、六方の諸佛は、悦ばしき哉、我が證誠を信じて、不退の浄土に、生ると悦び給ふらんと、

天に仰ぎ、地に臥して、悦ぶべし、この度彌陀の本願に、遭うことを。

行住坐臥にも、報ずべし、彼の仏の恩得を。

頼みても頼むべきは、乃至十念の詞。信じても猶信ずべきは、必得往生の文なり。 『 勅伝第二十一 』

また、上人は一枚の紙に記して、次のように教えている。

極楽往生の機縁と修行を末世の人々に当てはめてみると、たとえ念仏を唱える行が少なくても往生を疑ってはならぬ。一念十念の念仏を唱えただけで往生できるからである。

たとえ罪人であっても往生を疑ってはならぬ。仏はいかに罪深い者でも捨てないと説き給うているからである。

時代が下がって末世となっても往生を疑ってはならぬ。

釈尊は経法が滅し去った後でも念仏を唱えれば往生できると説き給うている。

まして末法万年にならない今の世に往生できないわけがない。

わが身に煩悩が多くとも往生を疑ってはならぬ。

善導大師すら自身は煩悩具足の凡夫であるといい給うている。

十方世界に仏の国土は多いけれども、西方極楽に往生したいと願うわけは、十悪五逆の人たちすらも往生できるからである。

諸仏の中で阿彌陀佛び帰依し奉るわけは、三念五念の念仏を唱えた者に至るまで自ら来迎し給うからである。

数多い修行の中で念仏を唱えるわけは、阿彌陀佛の本願の行であるからである。

いま阿彌陀佛の本願に乗じて往生したいと願うのに、本願のすべてが成就されているからできるのである。

仏の本願に乗じるためには、信心が深くなくてはならない。

受け難い人の身をすでに受け、会い難い本願に今会って、起こし難い往生の心を起こし、離れ難い生死の世界を離れ、往生し難い極楽浄土に往生できることは喜びの中でも最も大きな喜びである。

十悪五逆の極悪の罪を犯した者すらも往生できることを信じて、僅かな罪も犯さぬように心掛けねばならぬ。

罪人すらも往生できるのであるから、まして、善人が往生できないわけがない。

一念十念の念仏によって往生できることを信じて、絶え間なく念仏を相続しなければならぬ。

一声の念仏でさえ往生できるのであるから、まして数多く念仏を唱えた者が往生できないわけがない。

阿彌陀佛は誓いのお言葉の通りに本願を成就し給い、現に極楽浄土にましますのであるから、必ず命終の時に来迎し給うであろう。

釈尊はよくぞわが教えに従って念仏を唱えたとして、生死の世界を離れることを照覧し給い、六方にまします仏たちは喜ばしいかなわが証明の言葉を信じて念仏を唱えたとして、再び退くことがない極楽浄土に往生することを喜び給うであろう。

天を仰ぎ地に伏して喜ばねばならぬのは、この阿彌陀佛の本願に会い奉ったことである。

行住坐臥に忘れずに報じなければならぬのは、阿彌陀佛がわれ等を救い給う恵みの徳である。

頼む上にもなお頼むべきは、阿彌陀佛が誓い給うた乃至十念のお言葉である。信じる上にもなお信ずべきは、善導大師が説いた必得往生の文である。

【機】

本来は自分の心にありながら、自らは働かず、縁を得て教法により働く性能。機根(きこん)。

ざいこん【罪根】

罪をまねく基となる行為。

ほうめつ(ホフ‥)【法滅】

仏法の滅びること。正法、像法、末法の三時を過ぎれば、仏法は滅びるという。*往生大要抄「百年法滅ののちをすくひ給へり」

じゅうあく(ジフ‥)【十悪】

身・口・意の三業(さんごう)が作る一〇種の罪悪。すなわち、殺生・偸盗・邪淫の「身三」、妄語・両舌・悪口・綺語の「口四」、貪欲・瞋恚(しんい)・邪見の「意三」の総称。

ごぎゃく【五逆】  「ごぎゃくざい(五逆罪)」の略。  ごぎゃく‐ざい【五逆罪】 

五種のもっとも重い罪悪。一般には、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることの五つをいい、これを犯すと無間地獄(むげんじごく)に落ちるとされ、五無間業と呼ばれる。また、別に「大薩遮尼乾子所説経‐巻四」に説く大乗特有のものがある。

らいこう【来迎】

念仏行者の臨終に、阿弥陀仏が聖衆とともに迎えに来て浄土に連れて行くこと。御来迎。

ほんがん(‥グヮン)【本願】

本来の願い。もとからの誓願。本懐。   仏菩薩が過去世において、衆生を救済するために起こした誓願。阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二願など。本誓(ほんぜい)。   寺院、塔、仏像などを創立し、法会(ほうえ)を発起すること。また、その人。施主。本願主。

にんじん【人身】  人間の体。じんしん。

人身は受け難(がた)く仏教には遇(あ)い難し この世に人間として生を受けるのは、因縁によるものであるから容易なことではなく、また、そのうえ仏の教えをきく機会にめぐまれることはもっとむずかしいという意。

どうしん(ダウ‥)【道心】

仏道を修め仏果を求める心。菩提心。「道心堅固」 一三歳または一五歳で仏門にはいった人。また、一般に仏道修行をする人。

りんね(‥ヱ)【輪廻】 (「りんえ」の連声)

車輪の回転してきわまりないように、衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと。

ぎょうじゅう‐ざが(ギャウヂュウザグヮ)【行住坐臥】 (「ぎょうじゅざが」とも)

歩くこと。止まること。すわること。臥すこと。この四つはすべての動作の基本であるところから、仏教では、特に規律を定め、これを四威儀という。日常の立ち居ふるまい。


第十一 (深心)

ただ心の善悪をもかえりみず、罪のかろきおもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿彌陀佛ととなえては、聲につきて決定往生の思いえおなすべし。

その決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。

かく心えねば往生は不定なり。往生は不定とおもへばやがて不定なり。

一定と思えば一定する事にて候ふなり。

されば詮は、ふかく信ずる心と申し候は、南無阿彌陀佛と申せばその仏の誓いにていかなる身をもきらはず、一定むかへ給ふぞふかくたのみて、いかなるとがをもかえりみず、うたがふ心のすこしもなきを申し候ふなり。『 勅伝第二十二 』

専ら、心の煩悩や、罪の軽い思いを気にかけずに往生したいと願い南無阿彌陀佛と唱えれば、念仏の声によって必ず往生できることを知らなければなりません。

必ず往生できると信じる心によって、往生の果報が決まります。

この心得のない者は往生できると決まっていません。往生を不確かであると思っている者は、結局往生も不確かになります。

必ず往生できると信じてこそ、必ず往生できるんものです。

要するに深く信ずる心というのは南無阿彌陀佛と唱えらば仏の本願に乗じ、どのような凡夫でも差別することなく必ず来迎し給うことを深く頼み、どのような罪も気にかけずに深く信じ、少しも疑う心のないことです。

けつじょう‐おうじょう(ケツヂャウワウジャウ)【決定往生】 

必ず極楽に往生すること。また、極楽に往生すると決まっていること。

ぼんのう(‥ナウ)【煩悩】

心を煩わし、身を悩ます心の働き。心身を悩ます一切の精神作用の総称。貪・瞋・痴の三つは三毒と称して、その最も根元的なものとする

かほう(クヮ‥)【果報】

前世での善悪さまざまの所為が原因となって、現世でその結果として受ける種々の報い。

なむあみだぶつ【南無阿弥陀仏】

阿弥陀仏に帰依することを表すことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。六字名号



第十二   (正雑二行) 


 それ速やかに生死を、離れんと、思えば、二種の勝法の中に、暫く、聖道門を、さしおきて、選びて、淨土門に入れ。

淨土門に、いらんと、思えば、正雑二行の内に、暫く、諸々の雑行を、投げ捨てて、選びて、正行に帰すべし。

正行を修せんと。おもはば、正助二業の内に、なお助業を傍らにして、選びて、正定を、もはらにすべし。

正定の業というは、即ち、これ佛の御名を称するなり。

名を称すれば、必ず、生まれることを得。佛の本願に、依るが故に。」  『 勅伝第十八 』

もしそれ迷いと苦悩の境地から脱して悟りの境地に至るために、永遠の世界である極楽浄土に往生したいと願うならば、仏法に二種の勝法がある中において、しばらく聖道門を差し置き、選んで浄土門に帰依しなければならぬ。

浄土門に入ろうとするならば、修行に正行を雑行とがある中において、しばらく雑行をなげ捨てて、選んで正行を修めなくてはならぬ。

正行を修めようとするならば、正行に正業と助業とがある中において、なお助業を傍らにおいて、選んで正定の業を専ら修めなくてはならぬ。

正定の業とは念仏を相続して唱えることである。

念仏を唱える者は必ず極楽浄土に往生することができる。何故なら念仏は阿彌陀佛の本願に合致した行であるからである。

すみやか【速やか】

〔形動〕(「やか」は接尾語)はやいさま。時間をおかないさま。さっそく。すぐ。

生死を離(はな)る

煩悩の迷いの境界を捨て、涅槃の悟りに達し、生死流転(るてん)を繰り返す苦界から脱する。悟りを開く。

しょうどう‐もん(シャウダウ‥)【聖道門】 

修行して、現世において迷いを断ち、聖者となって、悟りを得ようとする道。また、浄土教以外の諸宗。自力門。難行道。⇔浄土門

じょうど‐もん(ジャウド‥)【浄土門】 

阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏してその浄土に往生することを説く教えの総称。⇔聖道門(しょうどうもん)

しょうぎょう(シャウギャウ)【正行】

浄土門で、念仏者が修すべき読誦・観察・礼拝・称名・讚嘆供養の五つ。称名を正定業、他の四つを助業とする。→雑行(ぞうぎょう)

ぞうぎょう(ザフギャウ)【雑行】

(「ぞう」「ぎょう」はそれぞれ「雑」「行」の呉音)阿弥陀仏以外の仏菩薩の名を称えるなど、正行(しょうぎょう)以外の諸善。また、それらを修めること。正行に五つを数えるようにこれにも五つを数える。

しょうじょう‐ごう(シャウヂャウゴフ)【正定業】 

浄土教で浄土の往生を決定する行為のことで、阿弥陀仏の名号を唱えること。称名念仏すること。じょうごう。

じょごう(‥ゴフ)【助業】

阿弥陀仏を対象として行う正行のうち、正定業である称名念仏を除いた読誦・観察・礼拝・讚歎供養の四つをいう。



第十三   (二行得失)


 往生の行、多しと雖も、大いに分かちて、二つとし給えり。

一つには専修、いわゆる念仏なり。

二つには雑修、いわゆる一切の、諸々の行なり。上に云う所の定散等これなり。

往生礼讃に曰く、若し能く上の如く、念々相続して、畢命を期とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず。専修と、雑行とは得失なり。

得というは、往生すると云うことを得。曰く、念仏する者は、十は、即ち、十人ながら往生し、百は、即ち、百人ながら往生すという、これなり。

失というは、曰く、往生の益を、失えるなり。

雑行の者は、百人が中に、希に、一二人往生することを得て、そのほかは生ぜず。千人が中に、希に、三五人生まれて、その余は生まれず。

専修の者は、皆、生まれることを得るは、何の故ぞ。

阿弥陀仏の本願に、相応せるが故なり、釈迦如来の教えに、随順せるが故なり。

雑業の者は、生まれること少なきは、何の故ぞ、彌陀の本願に、違える故なり、釈迦の教えに、従がわざる故なり。

念仏して、浄土を、求める者は、二尊の御心に深く叶えり。

雑修をして、浄土を、求むる者は、二佛の御心に、背けり。

善導和尚、二行の得失を、判ぜる事、これのみにあらず。

観経の疏と、申す文の内に、多く得失をあげたり。しげきが故に、出さず。これをもて知るべし。  『 勅伝第二十五 』

 善導大師は往生の行として数多くの修行があるが、これを大きく分けて二つとした。

一つは極楽往生の直接要因を一心に励む専修であって、これが、念仏を唱える行である。

二つには念仏以外の行を兼修する雑業であって、念仏以外のすべての諸行である。

前に述べた定善散善とその他の行が雑修である。

善導大師は往生礼賛偈の中で、次のように説いている。 

「もし上に述べた通りに三心を具足し、四修の法によって念仏を念々に相続して唱え、生涯を通してやまなかったならば、その者は十人が十人ながら、百人は百人ながら極楽往生できる。」

 この文は念仏を唱える専修と、その他の雑行との得失を説いた言葉である。

得というのは必ず往生できる勝れた行のことである。

この文に念仏を唱える者は十人が十人ながらおうじょうし、百人は百人ながら往生できると説いているのが得である。

失というのは往生という利益を失った行のことである。

大師は雑行を修めて往生したいと願っても、百人の中で稀に一人か二人が往生できるのであって、その他は往生できないといい、千人の中で稀に三人か五人が往生できても、その他は往生できないと説いている通りである。

念仏を唱える者はすべて往生できるのは何故であろうか?

それは念仏が阿彌陀佛の本願に一致しているからであり、釈尊が後世にまで遺し給うた教えに叶った行であるからである。

雑行を修行しyて往生できるものは少ないのは、何故であるかといえば、雑行は阿彌陀佛の本願に相違しているからであり、釈尊が後世に弘通を命じた行でないからである。

念仏を唱えて極楽往生を願う者は阿彌陀佛とのみ心に深く叶った者である。

雑修によって極楽往生を願う者は釈尊と阿彌陀佛のみ心に背いている者である。

善導大師が専修と雑修との得失を論じているのは、こればかりでない。観経疏という著書の中でも多くの得失を挙げているが、煩雑になるので挙げないことにする。

せんじゅ【専修】

もっぱら称名の一行を修すること。また、阿弥陀仏の五正行(読誦・観察・礼拝・称名・讚嘆供養)をもっぱらおさめることにもいう。⇔雑修

ざっしゅ【雑修】

浄土に往生するために、いろいろの行業をまじえて修すること。その内容については、(1)正行に対する雑行を修すること(鎮西派)、(2)正行、雑行を兼ね行うこと(聖覚)、(3)五正行のうちの正定業である称名と他の四つの助業とを兼ねて行うこと(親鸞)など見方に差がある。ぞうしゅ。⇔専修(せんじゅ)。→正行

じょうさん(ヂャウ‥)【定散】

常善は定心に住して修行する十三観など。  散善は散心のまま修する三福九品など

心静かな三昧の状態と、日常平生の心の散乱するままの状態。

おうじょうらいさんげ(ワウジャウ‥)【往生礼讃偈】 

唐代の僧善導の著。一巻。六時に行なう念仏行者の行法とその功徳を説く。詳しくは「勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈」という。

そうぞく(サウ‥)【相続】

物事を続けて行うこと。また、繰り返し絶えまなく続くこと。*海道記「終に十念相続して他界にうつりぬ」

ひつみょう(‥ミャウ)【畢命】

(「みょう」は「命」の呉音)命を終えること。命の終わること。また、生命のある限り。終身。生涯。

にぶつ【二仏】  尊(にそん)ともいう。  阿彌陀佛 と 釈尊

かんぎょう‐しょ(クヮンギャウ‥)【観経疏】 唐代の僧善導の著。観無量寿経に対する注釈書。



第十四   (専修念仏)


 本願の念仏には、一人立ちを、せさせて、助をささぬなり。

助というは、智恵をも、助にさし、持戒をも、助にさし、道心をも、助にさし、慈悲をも、助にさすなり。

善人は、善人ながら、念仏し、悪人は、悪人ながら、念仏して、ただ生まれ付きの、ままにて、念仏する人を、念仏に、助ささぬと云うなり。

さりながら、悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に叶うべし。

叶わぬ物故に、とあらん、かからんと思いて、決定心興らぬ人は、往生不定の人なるべし。」   『 勅伝第二十一 』

 本願の念仏は、念仏を唱えるだけで往生できて、その他の善根功徳の助けをかりなくてもよいのである。

助けというのは智慧の修行も助けであり、戒律を守るのも助けであり、悟りを求める心も助けであり、慈悲心を起こすのも助けである。

善人は善人のままで念仏を唱え、悪人は悪人のままで念仏を唱え、ただ生まれつきの姿のままで念仏を唱える人を、念仏に助けをかりない人ちうのである。

しかしながら、悪を改めて善人となって念仏を唱える人は、仏のみ心に叶った人である。

仏のみ心に叶わないからといって、あれこれ迷った挙句に必ず往生できるという固い信心が起こらない者は、結局往生できない人である。

ほんがん(‥グヮン)【本願】

本来の願い。もとからの誓願。本懐。  仏菩薩が過去世において、衆生を救済するために起こした誓願。阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二願など。本誓(ほんぜい)。

ねんぶつ【念仏】

仏を憶念すること。三念・六念などの一つ。  特に阿弥陀仏を念ずること。これには理観と事観と口称の三つが含まれるが、通常、南無阿弥陀仏の六字を口に唱える口称の意に用いられる。ねぶつ。

【智】

一切の事象や道理に対して的確な判断を下し、心中の惑いを絶つはたらき。慧と合して智慧ともいう。

()【恵・慧】

物や道理などの真実のすがたを見きわめる心の働き。三学の一つで、智と合して智慧とも。般若(はんにゃ)。

じかい(ヂ‥)【持戒】       仏教の戒律を堅く守ること。⇔破戒

じひ【慈悲】

衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。

けつじょう(‥ヂャウ)【決定】(「じょう」は「定」の呉音。「けってい」と漢音で読むのは比較的新しく、この場合、副詞の用法はない)

きまること。あることが定まって動かないこと。また、信じて疑わないこと。



第十五   (信行双修)                     


 一念十念に、往生をすと、いへばとて、念仏を、疎想に申すは、信が行を、妨げるなり。

念々不捨者と、云えばとて、一念を、不定に思うは、行が信を、妨げるなり。

信をば、一念に、生まれると信じ、行をば、一形に、励むべし。

又一念を、不定に思うは、念々の念仏毎に、不信の念仏になるなり。

その故は、阿弥陀仏は、一念に一度の、往生をあておき給える願なれば、念ごとに、往生の業となるなり。」   『 勅伝第二十一 』

一念十念の念仏で往生できるからといって念仏を疎略に唱えるのは、信心が修行を妨げているのである。

念々に捨てることなく念仏を相続するように説かれているからといって、一念の念仏では往生できないと考えるのは、修行が信心を妨げているのである。

信心では一遍に念仏で往生できると固く信じ、行では生涯を通じて念仏の相続に励まなければいけない。

もし一遍の念仏では往生できないと思っているとすれば、一つ一つの念仏がすべて往生を信じていない念仏となる。

阿彌陀佛の本願は一遍に念仏を唱える毎に必ず往生させると誓い給うているのであるから、念仏の一声一声が必ず往生できる修行となるのである。

いちねん‐じゅうねん(‥ジフネン)【一念十念】 

一度の称名念仏でも一〇度のそれでも、度数に関係なく、等しく極楽浄土に往生できるという浄土宗での教え。



第十六    他力本願


 念仏の数を、多く申す者をば、自力を、励むと云うこと、これ又、ものも覚えず、浅ましき、假事(ひがごと)なり。

ただ一念二念を、称えるとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし。千遍萬遍を、称え、百日千日、夜昼、励み、勤めむとも、偏に、願力を頼み、他力を、他力を、仰ぎたらん人の念仏は、声々念々、、しかしながら、他力の念仏にて、あるべし。

されば、三心を、興したる人の念仏は、日々夜々、時事刻々に、唱ふれども、しかしながら、願力を仰ぎ、他力を、頼みたる心にて、唱へ到れば、かけても、ふれても、自力の念仏とは、云うべからず。」『 勅伝 第二十一 』

念仏を数多く唱える者は自力の修行に励むのであるということは、これまた何んともいいようのない驚き入った誤りである。

僅か一遍か二遍の念仏を唱えるしても、自力で往生すると考えている者ならば自力の念仏である。

毎日千遍万遍の念仏を唱え、百日千日昼夜を分けずに励み努めたにしても、偏に仏の本願力を頼みにして他力を仰いでいる人の念仏は、その一声一声一念一念が即ち他力の念仏なのである。

つまり真実の心から本願を信じ、極楽往生を遂げたいと願っている者が、毎日毎日時々刻々に念仏を唱えていてもすべて本願力を仰ぎ、阿彌陀佛の慈悲を頼みにする心で唱えるのであるから、些(いささ)かも自力の念仏とは考えてはならないのである。

じりき【自力】

自分ひとりの力。自身の働き。独力。 自然に備わった力。天性の技量。 総じて、自分の力で修行をして成仏、または浄土往生を得ようとすること。

ひがごと【僻事】 「ひがこと」とも)道理や事実と違ったこと。間違った事柄。心得違いのこと。

がんりき(グヮン‥)【願力】

誓いの力。願をたてて、その願意を貫こうとする意気込み。 神仏にたてた、その誓いの力。念力。  阿弥陀仏の本願功徳の力。本願力。宿願力。

たりき【他力】

自分以外の仏菩薩の力をかりること。特に阿弥陀仏の本願の力によること、またその本願をいう。「他力信心」

さんしん【三心】  (「さんじん」とも)仏語。

極楽往生を得るのに必要とされる三種の心で、「観無量寿経」に説く真に浄土を願う至誠心、念仏によって往生を得ると深く信ずる深心、念仏の功徳をすべて回向して、往生したいと願う回向発願心。



第十七   易行往生


 念仏を、申し候事は、ややうの義候へども、ただ六字を、唱ふる内に、一切の行は、収まり候なり。

心には、本願を頼み、口には名号を称え、手には念珠を、取るばかりなり。

常に心を、かくるが、極めたる決定往生の業にて候ふなり。

念仏の行は、もとより行住座臥、寺所諸縁を、嫌わず、身口の不浄を、嫌わぬ行にて、易行往生と申し候なり。

ただし、心を、浄くして申すを、第一の行と申し候なり、人をも、左様にお勧め候うべし、努々、この心は、いよいよ、強くならせ給い候うべし。」『 勅伝 第二十五 』

念仏を唱えるのに様々な教えがありますが、ただ南無阿彌陀佛と唱えれば、その中にすべての行が納まっています。

心には仏の本願を頼み、口には六字の名号を唱え、手には念珠を持って礼拝するだけです。

いつも極楽往生を心の掛けていることが、必ず往生できる行であります。念仏を唱えるのに行住坐臥の何れでもよく、時と場所と事情とを問うことなく、喩え身体や口が不浄であっても念仏を唱えれば極楽往生できるのであるから、易行往生というわけであります。

ただし心だけは清く保っていて念仏を唱えることが一番大切であります。

人にもこのような念仏を唱えるように勧めて頂きたい。

まして自らも信心は増々強く持って頂きたいと存じます。

いぎょうイギャウダウ)【易行】 

(さとりに至るための、修し易い仏道修行の意から)念仏を唱えることにより阿弥陀仏の広大な智慧と慈悲に導かれてさとりに至るをいう。浄土門、念仏門などの他力門。⇔難行

さんごう(‥ゴフ)【三業】

仏語。身業と口業(くごう)と意業との称。身体動作、言語表現、心的行為の三つ。



第十八   (自身安穏) 毎日の暮らし方は?


 現世を、すぐべきようは、念仏の申されんかたによりて、すぐべし。

念仏の障りに、なりぬべきしからんことをば、いとい捨つるべし。

一所にて、申されずば、修行して申すべし。

修行して、申しされずば、一所に住して申すべし。

聖て、申しされば、在家にて、申しされされずば、、遁世して申すべし。

一人、籠もり居て、申さずば、同行と共行して申すされずば、一人籠もり居て申すべし。

衣食適わずして、申されずば、他人に、助けられて、申すべし。他人の、助けにて申されずば、自力にて申すべし。

妻子も、従類も、自身助けられて、念仏もうさん為なり、念仏の障りに、なるべくば、努々持つべからず。

所知所領も、念仏の助業ならば大切なり。

妨げにならば、持つべからず。」惣じて、これをいわば、自信安穏にして、念仏往生を、遂げんが為には、何事も、皆念仏の助業なり。

三途さんずに帰るべき事をする身をだにも、捨て難ければ、顧み、はぐぐむぞかし。

まして往生すべき、念仏申さん身をば、いかにも、育み、持てなすべし。

念仏の助業ならずして、今生の為に、身を貪求するは、三悪道の業となる。往生極楽の為に、自信を貪求するは、往生の助業となるなり。『 勅伝 第四十五 』

現世を過ごすには念仏が唱えられるように暮すのである。念仏の障りとなることがあれば厭い捨てなければならない。

一つ所で唱えられなければ、托鉢や巡礼に出て唱えるがよい。

托鉢や巡礼に出て唱えられなければ、一つ所にとどまって唱えるがよい。

出家して唱えられなければ、在家になって唱えるがよい。

在家で唱えられなければ、遁世して唱えるがよい。

独り篭って唱えられなければ、同心の人と一緒に唱えのがよい。

皆と一緒に唱えられなければ、独り篭って唱えるのがよい。

生活が不自由で唱えられなければ、他人の助けられて唱えるのがよい。

他人の助けを受けて唱えられなければ、自力の生活で唱えるのがよい。

妻子や一族と一緒に暮すのも自分が助けられて念仏を唱えるためである。

念仏の障りとなるならば決して持ってはならない。

土地や財産も念仏を唱える助けとなるならば大切なものである。

念仏の妨げになるならば持ってはならない。これを括めていえば、自らの心を安らかにして念仏を唱え、極楽往生を遂げるためであって、そのためならば何事も皆念仏の助業となるのである。

来世に地獄、餓鬼、畜生の世界におちる悪事を行っているこのような身であても、見捨てることなく心にかけて大切にすることである。

まして極楽往生できる念仏を唱えている身であるから、どのようにしてだも大切にしなければならない。念仏を唱える足しヶとならない暮らしをしていて、今生の楽しみのために命を貪ることは地獄、餓鬼、畜生におちてゆく暮らしである。

極楽往生を願って念仏を唱え、そのために自身の命を大切にして長生きすることは、往生のために助けちなる。

げんせ【現世】

「現在世」の略。古くは、また仏語では、「げんぜ」)現在の世の中。今の世。生を受けている現実の世。仏教では三世の一つで、前世、来世に対して用いる。げんせい。*栄花‐うたがひ「現世は御寿命延び、後世は極楽の上品上生に」

さんあくどう(‥アクダウ)【三悪道】

(連声(れんじょう)で「たんなくどう」「さんまくどう」とも。「道」は梵gatiの訳語。衆生が業によっておもむく生存の状態、またはその世界をいう)仏語。悪業の結果堕ちる三つの悪道。地獄道、餓鬼道、畜生道。三趣悪。三悪。

じょごう(‥ゴフ)【助業】

仏語。阿弥陀仏を対象として行う正行のうち、正定業である称名念仏を除いた読誦・観察・礼拝・讚歎供養の四つをいう。



第十九   乗仏本願


 他力本願に、乗ずるに二つ有り、乗ぜざるに二つ有り。

乗ぜざるに、二つというは、一つには罪を作る時乗ぜず。

その故は、是の如く、罪を作れば、念仏を申すとも、往生不定なりと、思うとき乗ぜず。

二つには道心の起こるとき、乗ぜず。

その故は同じく念仏申すとも、是の如く、道心有りて、申すさんずる念仏にてこそ、往生はせんずれ。無道心にては、念仏すとも、叶うべからずと、道心を、さきとして、本願を、次に、思うとき乗ぜざるなり。

次に、本願に乗ずるに、二つの様と云うは一つには罪を作る時乗ずるなり。

その故は、是の如く、罪を作れば、決定して地獄に墜つべし。

しかるに、本願の名号を、唱ふれば、決定往生せん事の、うれしさよと、喜ぶときに乗ずるなり。

二つには、道心起こるとき、乗ずるなり。

その故は、この道心にて、往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかた、起これども、未だ生死を、離れず。

かるが故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重を云わず、ただ本願の称名を、念々相続せん力によりてぞ、往生は遂ぐべきと、思う時に、他力本願に乗ずるなり。『 勅伝 第二十一 』

他力本願に乗じて往生できる場合に二つがあり、乗じない場合に二つある。乗じない場合に二つあるというのは、

一つには罪をつくった時に乗じない。そのわけはこのような罪をつくったのでは念仏を唱えても往生できるかどうか?判らぬと考えた時に他力本願に乗じないからである。

二つには仏道修行に精励する心を起こした時に乗じない。

そのわけは同じく念仏を唱えるにしても、このように仏道修行に精励する心があって唱える念仏だからこそ往生できるのであって、精励する気持ちがなくて念仏を唱えても往生できないであろうとして、精励する自分の心を第一に考え、仏の本願を二の次に考えた時に他力本願に乗じないからである。

次に、乗じる場合に二つあるというのは、

一つには罪をつくった時に乗じるのである。そのわけはこのような罪をつくったのでは必ず地獄におちるに相違ないのであるが、幸いにして本願の念仏を唱えれば必ず極楽往生ができるという嬉しさに喜ぶ時に他力本願に乗じるからである。

二つには修行に精励する心を起こした時に乗じるのである。

そのわけは、修行に精励したからといってそれだけでは往生できないと思うからである。

この程度のことならば今までに何度起こしたかしれないのに、いまだに、生死の世界から離れずにいるのである。

このように修行に努力する心の有るやなしや、罪の軽重を問題にせずにただ本願に念仏を念々に相続してゆけば、その功徳によって往生できるのであると思った時に他力本願に乗じるのである。

たりきほんがん(‥ホングヮン)【他力本願】

自己の修行の功徳によってさとりをうるのでなく、もっぱら阿弥陀仏の本願によって救済されることをいう。

決定して (あとに否定の語や意を伴って副詞的に用いる)

必ず。きっと。けっして。*真如観「定めて極楽に生ずる事、決定して疑なし」

じごく(ヂ‥)【地獄】  (梵naraka(那落迦)、niraya(泥犁)の訳。「地下にある牢獄」の意からといわれる)

六道の一つ。現世で悪業(あくごう)を重ねた者が死後その報いによって、落ちて、責め苦を受けるという所。またはその世界に落ちた者、あるいはその生存のあり方。等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻(無間)が八大地獄で、このそれぞれには四方の門外にまたそれぞれ四つずつの小地獄があり、このほか、八寒地獄、孤地獄などがあるという。また、閻魔大王が死者の生前の罪を審判するという。地獄界。地獄道。奈落(ならく)。冥府。



第二十           難修観法                         


 近来の行人、観法を、なす事なかれ。

仏像を観ずとも、運慶快慶が、作りたる、佛程だにも、観じ顕すべからず。

極楽の荘厳を、観ずとも桜梅桃李の、花菓程も、感じあらわさん事、かたかるべし。

彼の佛今現に世に在して成仏し給へり。

まさに知るべし、本誓の重願虚しからざる事を。

衆生称念すれば、必ず往生を得の、釈を信じて

深く、本願を頼みて、一向名号を唱ふべし。名号を唱ふれば、三心自ずから具足する也。   『 勅伝 第二十一 』

 近頃の修行者は瞑想にふける観方を修行しなくてもよい。

たとえ仏の相好を観方したとしても、運慶や康慶という大仏師がつくり上げた仏像ほどに立派な姿を観じ現すことができない

極楽浄土の荘厳を観想したにしても、この世の桜、梅、桃、李の花や果実ほどに美しく観じ現すことは難しいであろう。

善導大師が「阿彌陀佛は現にとなって極楽浄土にまします。

このことによって四十八願のすべてが成就されていることを知るのである。

もし、人が念仏を唱えれば必ず極楽往生ができる」と説いている言葉を信じ、

心から本願を頼んで一向に念仏を唱えなければならない。

一向に念仏を唱えさえすれば、自然に三心が具わるのである。

きんらい【近来】

現在に近い時点。ちかごろ。このごろ。

かんぽう(クヮンポフ)【観法】   (「かんぼう」とも)

心に仏法の真理を観察し、明らかにする方法。天台の十乗観法はその一例。

ぶつぞう(‥ザウ)【仏像】

仏の姿を彫刻や絵画にあらわしたもの。仏教での礼拝の対象となる。如来像だけをさす場合と広く仏教諸尊像をさす場合とがある。

うんけい【運慶】

鎌倉初期の彫刻家。京都の人。定朝五代の孫康慶の子。数多くの仏像を製作。写実的な力強い作風で、鎌倉彫刻の第一人者とされる。作品に円成寺「大日如来像」、快慶との合作による東大寺南大門「金剛力士像」など。生没年不詳。

かいけい(クヮイケイ)【快慶】

鎌倉初期の仏師。康慶あるいは運慶の門弟という。運慶とともに後世に大きな影響を与えた。東大寺の阿弥陀如来立像、地蔵菩薩像など二〇点余が残る。法名、安阿弥。生没年不詳。

ごくらく【極楽】

阿弥陀仏の浄土。この世界の西方、十万億の仏土を経たかなたにあるという、一切の苦患を離れた、諸事が円満具足している安楽の世界。心配や悩みなどがなく安楽であること、非常におちついた楽しい境遇であること、また、この上もなく楽しい状態や場所などのたとえにも用いられる。安養国。安楽国。

さくら【桜】

バラ科サクラ属のうちの一群。おおむね落葉高木。北半球の温帯ないし暖帯に分布し、特に東アジアに多く、数十の野生種がある。花はふつう春に咲き、葉の展開に先だって開くことが多い。淡紅・白などの美しい五弁花で、八重咲きのものもある。古くから和歌や絵画にとり上げられ、現在日本の国花とされる。観賞用に古くから栽培され江戸時代以来多くの園芸品種が作られた。材は版木、家具、建築、造船などに使い、樹皮は漢方で鎮咳(ちんがい)、レ痰(きょたん)薬に用いる。塩漬けにした花や蕾は桜湯にして飲み、ミザクラ(オウトウ)の実はさくらんぼと称して食用にする。ヤマザクラ、サトザクラ、オオシマザクラ、ソメイヨシノ、エドヒガン、ヒガンザクラなど。《季・春》

うめ【梅】   (平安以後「むめ」と表記された例がかなり多い)

 バラ科の落葉高木。中国原産で奈良時代以前に渡来したといわれ、各地で栽培され、園芸品種は三〇〇以上ある。高さ六〜一〇メートルに達する。樹皮は堅く黒褐色。葉は卵形で先が急に狭くなり、縁には浅い鋸歯がある。早春、葉に先立って香りのよい五弁花が咲く。色は白、紅、淡紅などがあり八重咲きもある。実は直径三センチメートルほどの球形か楕円形で中央に堅い核があり、この中に種子が一つはいる。梅雨の頃に熟し、食用とするが、未熟のものは青酸を含み有毒。梅干、梅酒、梅びしおなどを作る。果肉を煮つめたものや皮をむいて燻製とした烏梅(うばい)は胃腸薬、下痢止め、咳止めとする。また、室町時代頃から樹皮の煎じ汁を褐色の染料に用いた。材は器物を作る材料とする。好文木(こうぶんぼく)。木花(このはな)。かざみぐさ。《季・春》

もも【桃】

バラ科の落葉小高木。中国黄河上流地域原産で、古くから日本に渡来していたらしく、弥生時代の遺跡からも核が出土する。食品の記録は正倉院文書、延喜式などにみられる。現在広く栽培される品種は明治以降ヨーロッパ・中国からの導入品種からあらたに作出されたもの。また、古くから花を観賞する品種も多い。高さ約五メートル。葉は披針形または長楕円形で長さ一〇〜一六センチメートル、先はとがり、縁に細鋸歯がある。春、葉に先だって、淡紅色または白色の五弁花を開く。果実は球形で大きく核がある。果肉はやわらかく美味。多汁で、生食やかん詰めにされる。材は黄色で細工物に用い、核は漢方で桃仁といい、せきどめに用いる。葉は浴湯に入れ、これを桃湯という。みきふるぐさ。みちとせぐさ。みちよぐさ。《季・秋》

すもも【酸桃・李】

バラ科の落葉小高木。中国原産で、日本には古くから渡来し「万葉集」や「日本書紀」に「李」として登場している。高さ三〜六メートル。葉は互生し長さ五〜七センチメートルの狭長卵形、縁に細鋸歯がある。四月ごろ、葉に先だって葉腋に白色で径約二センチメートルの五弁花が一〜三個ずつ叢生して咲く。果実は径二〜五センチメートルの球形または広卵形で、赤紫色または黄色に熟す。果肉は甘酸っぱく多汁で、そのまま食べたり塩漬や砂糖漬にしたりする。果樹として広く栽培され品種が多い。漢名、李。にほんすもも。はたんきょう。《季・夏》

ほんぜい【本誓】

諸仏菩薩が、菩薩の修行を行っていた因位のときに立てた、衆生済度の誓願。

しゃく【釈】

善導大師の往生礼賛偈 後序の文

さんじん【三心】  (「さんしん」とも)仏語。

極楽往生を得るのに必要とされる三種の心で、「観無量寿経」に説く真に浄土を願う至誠心、念仏によって往生を得ると深く信ずる深心、念仏の功徳をすべて回向して、往生したいと願う回向発願心。



第二十一  精進


 或いは金谷の花を、弄びて、遅遅たる、春の日を、虚しく、暮らし、或いは南楼に月を、嘲りて、漫々たる、秋の夜を、いたづらに、明かす。

或いは千里の雲に、馳せて、山の稼ぎを、とりて、歳を、おくり、或いは万里の波に、浮かびて、海の色くづを、とりて、日を重ね、

或いは厳寒に、氷を凌ぎて、世路を、渡り、或いは炎天に、汗をのごいて、利養を、求め、

或いは妻子眷属に、纏われて、恩愛の、絆、切り難し、

或いは執敵怨類に、遭いて、瞋恚の炎、止むこと無し。

惣じて、是の如くして、昼夜朝暮れ、行住座臥、時として、止むこと無し。

ただ欲しきままに、あくまで、三途八難の業を重ぬ。

然れば、或文には、一人一日の内に、八億四千の念有り、念々の内の所作皆これ三途の業といえり。

是の如くして、昨日も、悪戯に、暮れぬ。

今日もまた、虚しく開けぬ。今、幾たびか、暮らし、幾たびか、あかさんとする。」『 勅伝 第三十二 』

 あるいは金谷園にも等しい花見の名所で桜を愛でながら長い春の日を虚しく暮らし、

あるいは南楼で見る月と同じ名月を鑑賞しながら秋の夜長を徒に明かしてしまう。

あるいは千里の雲の中にある谷間を馳せ巡って鹿を追いながら年を送り、

あるいは波涛に舟を浮かべて魚をとって日を重ねている。

あるいは厳寒に氷を割って世渡りとし、あるいは炎天に汗を拭って利得をはかる。

あるいは妻子眷属に纒(まと)われて恩愛の絆を断ち難く、あるいは怨敵に会って怒りの炎消えることがない。

 すべて、このようにして昼夜朝暮を過ごし、行住座臥に止まることがない。

ただ己れが欲するままに毎日を送り、あくまでの地獄、餓鬼、畜生の世界におちる行為を重ね、仏法を聞き得ない境遇におちることになる。

だからこそ経文には1日に8億4千に思いが去来し、その1つ1つの振る舞いは地獄、餓鬼、畜生の世界におちる行いであると説いているのである。

 こうして昨日も徒に暮れてしまい、今日もまた虚しく朝を迎えた。

これからも同じように1日を暮らし、幾日虚しく夜を明かして朝を迎えてゆくのであろうか?

きんこく【金谷】

中国、河南省洛陽の西北にある渓谷。金谷園があった。

あざける【嘲る】

〔自ラ四〕(「あざ」は「あざわらう」「あざむく」などと同根)

あたりかまわず勝手な口をきく。また、大きな声を出す。ふざける。*大乗顕識経平安初期点‐下「麗妓侍り繞て、笑ひ(アサケリ)、嬉び戯れ」

声をあげて詩歌を口ずさむ。うそぶく。*後拾遺‐序「月にあざけり、風にあざける事たえず」

せいろ【世路】

世の中を渡って行く道。また、渡って行く世の中。世途。せろ。

りよう(‥ヤウ)【利養】

実質的な財物の利得。また、利欲をむさぼって私腹をこやすこと。

さいしけんぞく【妻子眷属】    妻子と眷属。妻子や親族。一家一門。

まつわる(まつはる)【纏わる】  〔自ラ下二〕

からみつく。ぐるぐるとまきつく。まとわる。  いつも離れないでいる。つきまとう。まとわる。  かかわり合う。かかわりなずむ。

おんあい【恩愛】

(連声で「おんない」とも)めぐみいつくしむ心。情愛。*三帖和讚‐高僧「恩愛はなはだたちがたく」

しんい【瞋恚・嗔恚】

(連声で「しんに」とも)仏語。三毒(貪毒・瞋毒・痴毒)、十悪などの一つ。自分の心に違うものを怒りうらむこと。一般に、怒りうらむこと。瞋。しんね。

瞋恚の=炎(ほのお・ほむら)[=火(ひ)・猛火(もうか・みょうか) 他人に対する激しいうらみや怒りを炎にたとえていう。

さんず(‥ヅ)【三途・三塗】  (「途」は道または塗炭の意)仏語。

熱苦をうける火途、刀・剣・杖などで強迫される刀途、互いに相食む血途の三つで、これを三悪道に配し、順次に地獄、餓鬼、畜生に当てる。三悪趣。三悪道。

はちなん【八難】

仏道修行の妨げとなる八つの障難。地獄・畜生・餓鬼の三悪道と、長寿天・辺地(へんじ)・盲聾ヲ「(もうろういんあ)・世智弁聡・仏前仏後の称。三途八難。  八つの災難。すなわち、飢・渇・寒・暑・水・火・刀・兵の難儀。転じて、多くの苦難。 八つの欠点。転じて、多くの非難すべき点。

しょさ【所作】

おこない。ふるまい。しわざ。所為。所行。特に、古くは読経、礼拝など神仏に対するおこないをいうことが多い。

身・口・意の三業が発動して造作する具体的な行為。能作に対していう。また受戒・懺悔などの作法。*徒然草‐二四一「道にむかふ時、さはりなく、所作なくて、心身ながくしづかなり」



第二十二  無常迅速


 それ、あしたに、開くる、栄花は、夕べの、風に、散り易く、夕べに結ぶ命露は、明日の日に、消え易し。

これを、知らずして、常に、栄えんことを思い、これを、悟らずして、久しく、あらん事を、思う。

しかる間、無常の風、一度吹きて、憂いの露長く、消えぬれば、これを広野にに捨て、これを、遠き山に送る。

屍は、常に、苔の下に、埋もれ、魂は、一人旅の空に、迷う。

妻子眷属は、家に有れども、伴わず、七珍萬宝は、くらに満てれども、益も無し。

只身に従うものは、後悔の涙也。

遂に閻魔の庁に、到りぬれば罪の浅深を定め、業の軽重を、考えらる。

法王罪人に問いて曰く、

汝佛法流布の、世に生まれて、なんぞ修行せずして、悪戯に、帰り来たるやと。

その時には我ら、如何応えんとする。

速やかに、出要を、求めて、虚しく、三途に帰る事なかれ。『 勅伝 第三十二 』

 朝に開いた花は美しくても、夕べの嵐に散り易く、夕べに宿る露の命は朝の日に消えてゆく。

移り変りを知らずに常に栄えることを願い、儚い命を悟らずにいつも同じであると思っている。

こうしている内に無常という風が一度吹き込めば、因縁和合の肉体は露のように消え去って、やがて広野に送られ、遠い山に葬られる。

屍は苔の下に埋められ、魂は独り旅を彷徨い続ける。

妻子眷属は家にいても伴う者がなく、七珍万宝が蔵に満ちていても役立つものは何もない。

ただ身に従ってゆくものは後悔の涙だけである。

やがて閻魔の庁に着けば罪業の深浅を問われ、罪の軽重に従って行き先がきまる。

閻魔法王は罪人に問うていうのに、あなたは仏法がある世に生まれていながら、どうして修行もしないで、徒に帰ってきたのか?と。

この時私たちは何とこたえるつもりでいるのであろうか?

今こそ早く生死の世界から逃れる法門を求めて修行し、このまま空しく地獄、餓鬼、畜生の世界にもどることがあってはならない。

あした【朝・明日】

夜が明けて明るくなった頃。あさ。古くは、夜の終わった時をいう意識が強い。*万葉‐四二〇九「安志多(アシタ)には門(かど)に出で立ち夕(ゆふへ)には谷を見渡し」

朝の露(つゆ) 朝、草葉などにおいている露。消えやすいところから短くはかないことのたとえに用いる。

えいが(‥グヮ)【栄華・栄花】

権勢や富の力によって、はなやかに時めき栄えること。*続日本紀‐天平宝字元年閏八月壬戌「方恐富貴難久、栄華易凋」  派手な生活。ぜいたく。*浮・好色一代男‐六「此両人栄花をきはめ」 栄華の夢ゆめ はなやかに世を過ごした夢。また、栄華のはかなさを、さめやすい夢にたとえていう。

ゆうべ(ゆふ‥)【夕べ】  (古くは「ゆうへ」)

 (「夕(ゆう)方(へ)」の意)日が没して暗くなろうとする時刻。夜の始まる頃。夜を中心とした時間区分の表し方で、その暗くなり始めをいう。宵(よい)の前。夕方。⇔朝(あした)

めいろ【命露】 露のようにはかない命。露命。

むじょう(‥ジャウ)【無常】

一切万物が生滅変転して、常住でないこと。現世におけるすべてのものがすみやかに移り変わって、しばしも同じ状態にとどまらないこと。特に、生命のはかないこと。いつ死ぬかわからないこと。「諸行無常」

無常の=風(かぜ)[=嵐(あらし)] 風が花を散らすところから、人の命を奪うこの世の無常を風にたとえていったもの。

うい【憂い】   〔形口〕う・し〔形ク〕

物事が思いのままにならないことを嘆きいとう心情を表わす。また、そのような心情を起こさせる物事の状態にもいう。

ある状態をいとわしく、不愉快に思うさま。いやだ。煩わしい。*万葉‐八九三「世の中を宇之(ウシ)と恥(やさ)しと思へども」

心が重苦しく閉ざされたさま。気持の晴らしようがなくて、つらく、やりきれない。「もの憂い」*万葉‐二八七二「逢はなくも懈(うし)と思へばいやましに」

つらい、やりきれないと思うような不本意な状態。自身にとっては、不遇、不運を嘆く意、他に対しては、みじめなさま、無残なさまを気の毒に思う意。*源氏‐蓬生「わが身はうくてかく忘られたるにこそあれ」

人につらいと思わせるような相手の状態。無常だ。冷淡だ。*新古今‐一二六〇「うき人しもぞ恋しかりける」

かばね【尸・屍】

死体。また、死体の骨。しかばね。   「しかばねかんむり(尸冠)」の別称。

えんま【閻魔・魔・焔魔】

 (「手綱」「抑制」「禁止」などの意。「遮止(しゃし)」「静息」など種々に訳し、また、死者の霊を捕縛する「縛」とも、平等に罪福を判定する意の「平等」とも訳す。また、古代インド神話では、兄妹の双生児であるところから「双」とも。また、Yama-rDjaの音訳、「閻魔羅社」「摩邏闍」などを略して「閻羅」「羅」などともする)仏語。死者の霊魂を支配し、生前の行ないを審判して、それにより賞罰を与えるという地獄の王。閻魔王。閻魔大王。閻魔羅。閻羅。閻羅王。*霊異記‐下・三五「死して魔の国に至る」

閻魔の庁(ちょう) 閻魔大王が死者の生前の行為を審判して、賞罰をする法廷。閻王庁。閻羅の庁。

閻魔の=帳(ちょう)[=帳面(ちょうめん)]に付(つ)く 閻魔王の帳面に、その人間の生前の罪が記録される。転じて、あの世のものとなる。死ぬ。閻魔帳につく。

つみ【罪】

仏教で、本来の道理に反し、または戒律の禁制に触れる行為で、それによって苦果を招く悪業をいう。罪業(ざいごう)。

ごう(ゴフ)【業】

意志による身心の活動、行為。一般に身・口・意の三業に分ける。また、身・口の二業に、他に示すことのできる表業と他に示すことのできない無表業の二つを分ける。善心による善業、悪心による悪業、善悪いずれでもない無記業の三業に分けることもある。

るふ【流布】

世に広まること、または広めること。世間に広く行われること。また、世間に知れわたること。

しゅつよう(‥エウ)【出要】

解脱(げだつ)の道。生死を出離するための要道

さんず(‥ヅ)【三途・三塗】   (「途」は道または塗炭の意)仏語。

熱苦をうける火途、刀・剣・杖などで強迫される刀途、互いに相食む血途の三つで、これを三悪道に配し、順次に地獄、餓鬼、畜生に当てる。三悪趣。三悪道。     三途の川の渡し場。冥土(めいど)の途中。

三途の=川(かわ)[=大河(たいが)] 仏語。人が死んで冥土に行く途中に越えるという川。川に緩急の異なる三つの瀬があって、生前の罪業によって渡る場所が異なり、川のほとりには鬼形の姥がいて衣を奪い取るという。三瀬川(みつせがわ)。しょうずか。さんずがわ。


第二十三   (一枚起請文) 

 ご命日  1212/01/25  遺言 2日前に書かれました!


 唐土我が朝に、諸々の智者たちの、沙汰し申さるる、観念の念にも非ず。

又学問をして、念の心を悟りて、申す念仏にも非ず。

只往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと、思いとりて、申す外には、別の仔細候わず。

但し三心四修と申す事の候ふは、皆決定して南無阿弥陀仏にて、往生するぞと、思ううちに、こもり候也。

この外に、奥深きことを存ぜば、二尊のあわれみに外れ、本願にもれ候うべし。

念仏を信ぜん人は、例え一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者の振る舞いをせずして、只一向に念仏すべし。
  為証以両手印(しょうのために りょうしゅいんをもってす)
浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別儀を存ぜず。

滅後の邪義を防がんが為に、所存を記しおわんぬ。
建暦二年正月二十三日
(大師在御判)『 勅伝 第四十五 』

 ここで説く念仏は、遠い中国やわが国で多くの高僧知識が説いてきたように、仏の相好や功徳を観想しながら唱える念仏ではない。

また、学問をして仏の功徳や念仏の意味を悟る等した上で唱える念仏でもない。

直ちに極楽往生をとげるたねには、南無阿彌陀佛と唱えれば疑いなく往生できると信じて唱えるだけであって、その外に別に詳しいわけがないのである。

 ただし三心四修ということがあって、心の持ち方が大切であるといわれていても、南無阿彌陀佛と唱えれば必ず往生できると疑うことなく信じてさえいれば、その心の内に自然に具わるのである。

この外に奥深いわけがないといったとすれば、釈尊と阿弥陀仏の慈悲に背くこととなり、念仏往生の本願に洩れて、往生できなくなるであろう。

念仏往生の教えを信じている人は、たとえ釈尊の一代の法門を十分に学んでいたにしても、一文字も知らない愚鈍な者と変わらない者であると思い、形だけの在家の尼僧のように何も知らない者と同じようにして、知者らしい振舞いをせずに、ただ一向に念仏を唱えなければならない。

以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両手を印としてこの一紙に判を押します。

浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めました。

私、源空の胸の内には、これ以外に異なった理解は全くありません。

私の滅後、間違った見解が出てくるのを防ぐために、考えているところを記し終えました。
建暦二年正月二十三日(法然上人の御手印)

とうど(タウ‥)【唐土】

昔、中国をさして呼んだ名称。からの国。もろこし。から。

かんねん(クヮン‥)【観念】

心静かに智慧によって一切を観察すること。また、一般に、物事を深く考えること。*今昔‐一五・八「我れ一心に極楽を観念するに」

しさい【子細・仔細】

(形動)こまかなこと。くわしいこと。また、そのさま。「子細に調べる」 

くわしい事情。事のいわれ。理由。「子細を述べる(聞く)」

さんじん【三心】    (「さんしん」とも)仏語。

極楽往生を得るのに必要とされる三種の心で、「観無量寿経」に説く真に浄土を願う至誠心、念仏によって往生を得ると深く信ずる深心、念仏の功徳をすべて回向して、往生したいと願う回向発願心。

ししゅ 【四修】  浄土教における修行の仕方の4種類

1恭敬修。阿彌陀佛および聖衆をうやうやしく礼拝すること。2無余修。もっぱら念仏を唱え、他の行ないをまじえないこと。3無間修 間をおかずに引き続いて修すること。4長時修。一生涯修すること。



第二十四   別時念仏


 時々別時の、念仏を修して、心をも、励まし、ととのへ、勧むべきなり。

日々に六万遍七萬遍を唱へば、さても足りぬべき事にて有れども、人の心ざまは、いたく、目慣れ、耳慣れぬれば、いらいらと、勧む心少なく、あけくれは、そう々として、心閑かならぬ様にてのみ、疎略に成り行くなり。

その心を、勧めん為には、時々の別時の、念仏を修すべき也。

然れば善導和尚も、懇ろに、励まし、恵心の先徳も、詳しく、教えられたり。

道場をも、引き繕い、花香をも、備えたてまつらん事、ただ力の、耐へたらんに、従うべし。

又我が身をも、事に、浄めて道場に入りて、或いは三時、或いは六時なんどに、念仏すべし。

もし同行など、数多あらん時は、代わる代わる、入りて、不断念仏にも修すべし。この様の事は、各々、様に従いて、計らうべし。『 勅伝 第二十一 』

時には別時の念仏を修めて、心をも身をも励まし、不足になり勝ちな念仏を整え満たさなくてはならない。

毎日6万遍、7万遍の念仏を唱えていれば、十分足りているのであるが、人の心は甚だ目に慣れ耳に慣れてくるものであるから、いそいそと唱える気持ちがなくなり、明け暮れの荒々しさにまぎれ、ついに念仏を疎略に唱え勝ちになる。

この気持ちを直して念仏を唱えられるようにするためには、時々別時の念仏を修めなくてはならない。

だからこそ善導大師は七日七夜の別時念仏を修めるように勧めているし、先徳の恵心僧都も修行の方式を詳しく説いている。

道場を威儀正しく整え、仏前に花や香を供えることは各自の力に応じてできるだけのことをする。

また自分の身体はとくに清めてから道場に入り、あるいは朝、お昼、夕方の三の時にお念仏をし、あるいは、晩、真夜中、早朝を加えて6つの時にお念仏を唱える。

もし、同信同行の者がいたならば、組に分けて代わる代わる道場に入って不断念仏を修める。

このようなことはその時々によって良いようにすらばよいのである。

べつじ【別時】

「べつじねんぶつ(別事念仏)」の略。

べつじねんぶつ【別時念仏】

念仏行者が特別の時に念仏すること。また、これを尋常と臨終とに分け、尋常では特に一日・二日ないし七日・一〇日あるいは九〇日など、日を限って行なう念仏のことにもいう。別時。べちじねんぶつ。《季・冬》

えしんそうず(ヱシンソウヅ)【恵心僧都】 ⇒げんしん(源信)げんしん【源信】

平安中期の天台宗の僧。卜部(うらべ)氏。大和の人。比叡山の良源に師事。横川の恵心院に住み、恵心僧都、横川僧都と呼ばれる。「往生要集」を著わして、のちの浄土教成立の基盤を築く。ほかに「一乗要訣」「観心略要集」「台宗二十七疑」など。(九四二〜一〇一七)

さんじ【三時】  (ここでは)

六時を昼夜に分けた、昼三時、夜三時。晨朝(しんちょう)・日中・日没の三つと、初夜・中夜・後夜の三つ。

ろくじ【六時】

昼夜を六分した念仏読経の時刻。

すなわち晨朝(じんじょう)・日中(にちゅう)・日没(にちもつ)・初夜(しょや)・中夜(ちゅうや)・後夜(ごや)の称。

ふだんねんぶつ【不断念仏】

あるきまった日時に、あるいは昼夜間断なく念仏を唱えること。常行三昧に基づき、比叡山におこったもので、古くは七日と定め、時に九〇日間にわたった例もあるが、ほぼ三日にわたるのが恒例。常念仏。



第二十五     導師嘆徳                             


 しづかに、おもんみれば、善導の観経の疏は、これ西方の指南、行者の目足なり。

しかれば、即ち、西方の行人、必ず、すべからく珍行すべし。

就中毎夜の夢の中に、僧有りて、玄義を指授せり。僧というは、おそらくは、これ彌陀の応現なり。

しからば云うべし、これ疏は彌陀の伝説なりと。

いかに況や、大唐に相伝して曰く、善導は、これ彌陀の化身なりと。

然からば云うべし、この文は、これ彌陀の直説なりと。すでに、うつさんと、おもわんものは、もはら、経法の如くせよといえり。此の言葉、誠なるかな。

仰ぎて本地を、たづぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚のとなえ、念仏に頼み有り。ふして垂迹を、とぶらへば、専修念仏の導師なり。

三昧正受の言葉、往生に疑いなし。本迹ことなりといえども、化導これ一つなり。

ここに貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を悟れり。

たち所に余行を、とどめて、ここに念仏に帰す。

其れよりこの方、今日に至るまで、自行、化他、ただ念仏を事とす。

しかる間、まれに、津を問う者には、示すと、西方の通津をもてし、たまたま行をたづぬる者には、教えるに、念仏の別行を以てす。

これを信ずる者は、多く、信ぜざる者は、少なし。

念仏を事とし、往生を希わん人、あに此の書をゆるがせにすべけんや。

『 勅伝 第十八 』

 心静かにいろいろと思ってみるのに、善導大師の観経疏こそは、極楽浄土に往生するための手引書であり、行者にとっては座右に備えるべき肝要な書でる。

西方往生を願う人ならば、必ず同書を心から尊重しなければならない。

特に同書の末尾に記している霊験によると、毎夜の夢の中に1人の僧が現れて大師に直接、観経の奥義を授け給うたとある。僧とは恐らく阿彌陀佛が化現し給うたお姿であったであろう。

もしそうならば、同書は阿彌陀佛が直接大師に伝授し給うた書であることになる。さらばかりでなく、仏祖以来の高祖伝によれば、善導大師は阿彌陀佛の化身であると伝えられている。

高僧伝が伝えている通りであれば、本疏はまさしく阿彌陀佛が直接説き給うた書であることになる。

同書は最後に「本疏を写そうとするには必ず写経と同じ法式に則って写すべきである。」との一句をもって終わっている。

この一句によって大師自らが同書を経典と同じ取り扱っていたことが判る。

仰いで大師の本地を伺えば、大師は四十八願を成就し給うているのであるから、念仏を唱えれば、疑いなく必ず極楽浄土に往生できる。

伏して阿彌陀佛の垂迹を訪ねれば、専修念仏を主唱した善導大師なのである。大師だ仏が人々を救うために人身を借りて現れ給うた姿なのである。

大師は宗教的最高の境地を体得しているから、大師の言葉に誤りがあろう道理がない。

阿彌陀佛と大師は本地と垂迹との相違があっても、人々を教化する法門として同じ教説をたて給うたわけである。

かつて観経四帖疏を繙いた時に大きな感銘を受け、更に繰り返して味読することによって、大師が説く念仏の法門の真意をさとることができた。

立ち所に余行を捨てて念仏の一行に帰し、それ以来今日に至るまで自らは一向に専ら念仏を相続して暮らし、他の人に向かってはひたすら念仏の功徳を説いてきた。

時によって煩悩に満ちた苦海から抜け出せる要門を尋ねる者があれば、その者に極楽浄土に往生できる法門を示してきた。

往生するための修行について尋ねる者があれば、その者に余行を捨てて専ら念仏を相続して往生を願う本願の行を説いてきた。

すると殆どの者が念仏の法門を信じ、直ちに念仏一行の信仰生活に入るにであった。

稀には聞いても信じない者もあったが、数からいえば極めて僅かな人々にすぎなかった。

念仏を唱えて極楽往生したいと願っている者にとっては、この選択集を決して疎略にしてはならないのである。

かんぎょう‐しょ(クヮンギャウ‥)【観経疏】 観無量寿経に対する注釈書。

観経四帖疏。四巻。観経玄義分、序文義、定善義、散善義の四帖よりなる。  善導の著。  四帖疏とも。

かんむりょうじゅきょう(クヮンムリャウジュキャウ)【観無量寿経】

大乗経典の一つ。一巻。良耶舎(きょうりょうやしゃ)が元嘉一九年(四四二)までに漢訳。浄土三部経の一つ。浄土往生の方法として無量寿仏(阿弥陀仏)や、その極楽浄土などに対する一六の観想を説いた経。観無量寿仏経。観経。

しなん【指南】

(―する)(指南車が方向指示をするように)方向、進路などをさし示すこと。また比喩的に、人を教え導くこと。また、そのものやその教え。手引き。「茶道(料理)を指南する」「指南書」

ぎょうじゃ(ギャウ‥)【行者】

仏道を修行する人。念仏の人を念仏行者、真言を行ずる人を真言行者などという。修行者。

西方の行人   西方浄土に往生することを願って念仏する人。

すべからく【須く】   副 
(為スベカリのク語法。漢文訓読から生じた語。多くの場合、下の「べし」と呼応する) なすべきこととして。当然。三宝絵詞「抑説き給ふ経の文についてすこぶるうたがひあり。―あながちおぼつかなさをあきらめむ」。徒然草「―まづ其の心づかひを修行すべし」。「学生は―勉強すべきだ」

げんぎ【玄義】

経論の注釈で、題名や大意を説明すること。または、その説明によって明らかにされた玄妙な教義や奥深い要旨。玄談。

おうげん【応現】=おうげ(応化) おうげ【応化】

仏菩薩が世の人を救うために、時機に応じて、いろいろなものに姿を変えて現われること。応現。

だいとう(‥タウ)【大唐】     (「たいとう」とも)中国唐朝、また、中国の美称。

じきせつ(ヂキ‥)【直説】    仏が直接説くこと。また、その説いた教え。

ほんじ(‥ヂ)【本地】

本地垂迹説によるもので、世の人を救うために神となって垂迹したその本の仏菩薩をいう。神はこの世に仮に姿を表した垂迹身で、仏菩薩をその真実身である本体とするもの。たとえば、天照大神の本地は大日如来だとする。

しじゅうはち‐がん(シジフハチグヮン)【四十八願】 

阿弥陀如来が法蔵比丘と称した修行時代に、一切の衆生を救うために立てた四八の誓願。無量寿経に説く。

ほうおう(ホフワウ)【法王】    法門の王。仏法の世界の王。すなわち、仏の称。法皇。

しょうがく(シャウ‥)【正覚】    (「無上等正覚」の略)仏語。正しい仏の悟り。等正覚。

ほんじすいじゃく(ホンヂ‥)【本地垂迹】  本地としての仏菩薩と垂迹としての神。

ほんじすいじゃく‐せつ(ホンヂスイジャク‥)【本地垂迹説】 

神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現れたとする神仏同体の説。法華経の本門・迹門の理解に負うもので、すでに九世紀ごろから神仏習合説が行われ、平安末期から鎌倉時代にかけて、すべての神社の本地仏が定められるほど盛んとなり、明治の神仏分離まで続いた。

さんまい【三昧】

(三摩提・三摩地とも音訳。定・正定・等持などと訳す)雑念を離れて心を一つの対象に集中した状態をいう。この状態に入るとき、正しい智慧が起こり、対象が正しくとらえられるとする。三昧正受。→三昧(ざんまい)

けどう(‥ダウ)【化導】    人々を教化して導くこと。

ひんどう(‥ダウ)【貧道】

仏道修行の貧しいこと。徳のうすいこと。  〔代名〕自称。僧侶が自分をさして、謙遜していう語。拙僧。

ひえつ【披閲】    書状などをひらいて調べて見ること。ひらいて念入りに見ること。

そい【素意】    かねてからの願い。平素からの思い。素志。素懐。本心。

じぎょう‐けた(ジギャウ‥)【自行化他】 

みずからのために仏道修行し、さらにその得た所をもって、他を教化すること。自利利他。


第二十六  光明摂取


 観無量寿経に曰く、

一々の光明、遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を、摂取して捨て給わず。

これは光明、ただ念仏の衆生を照らして、余の一切の行人をば、照らさずという也。

但し余の行をしても、極楽を願いわば。佛光照らして、摂取し給うべし。

如何、只念仏の者ばかりを、選びて、照らし給得るや。

善導和尚釈して、宣はく、彌陀の身色は金山の如し。相好の光明十方を照らす。

唯念仏の者のみありて光摂を蒙る。

当に知るべし本願最も強気を。

念仏はこれ彌陀の本願の行なるが故に、成仏の光明、返りて、本地の誓願を、照らし給う也。

余行は、これ本願にあらざるが故に、彌陀の光明、きらいて、照らし給わざる也。

今極楽を、求めん人は、本願の念仏を行じて、摂取の光に、照らされんと思いしめすべし。

これにつけても、念仏大切に候。よくよく申させ給うべし。」『 勅伝 第二十五 』

観無量寿経には次のように説かれている。

「阿彌陀佛の光明の一つ一つが十方の世界をあまねく照らして、念仏を唱える人々をお救いになり、一人として洩らし給うことがない。」

この経文の意味は仏の光明は念仏を唱える人々だけを照らし給い、その修行をしている者を照らさないということである。

しかし、その他の修行をしていても極楽往生を願っている者ならば、仏の光明が照らして往生させてもよいと思うかも知れない。

それなら何故念仏を唱えるだけを選んで照らし給うのであろうか。

善導大師は次のように説いている。「阿彌陀佛のお姿は須弥山を巡って聳え立つ七重の金山のようである。お身体から放っている無量無辺の光明は十方の世界をくまなく照らし給うている。

ただ念仏を唱える人々だけを照らして、一人も洩らすことなく光明に収めとり、救い給うている。

このことによって知られることは、念仏往生の本願がわれらを救うために最も強い力を発揮していることである。  

念仏は阿彌陀仏がたてた念仏往生の本願の行であるから、仏となって放ち給う無量の光明は、自ら誓った本願の行を修める者を照らし給うわけである。

その他の修行は本願でない行であるから、仏の光明の区別して照らし給わぬのである。

今生において極楽往生を願う者は、本願の行である念仏を唱え、仏の光明に照らされるようにしなくてはならない。

それにつけても念仏こそ大切な行である。よくよく念仏を唱えなくてはならない。

かんむりょうじゅきょう(クヮンムリャウジュキャウ)【観無量寿経】

大乗経典の一つ。一巻。良耶舎(きょうりょうやしゃ)が元嘉一九年(四四二)までに漢訳。浄土三部経の一つ。浄土往生の方法として無量寿仏(阿弥陀仏)や、その極楽浄土などに対する一六の観想を説いた経。観無量寿仏経。観経。

こんせん【金山】  (「こん」「せん」は、それぞれ「金」「山」の呉音)   仏の身を山にたとえた語。

そうごう(サウガウ)【相好】  (仏身についていう「三十二相八十種好」による語)

仏のからだの各部分の身体的特徴の総称。仏以外にも用いる。  顔かたち。顔つき。表情。

こうみょう‐へんじょう(クヮウミャウヘンゼウ)【光明遍照】

阿弥陀如来の光が遍(あまね)く十方を照らし、念仏の衆生をその光の中におさめとって捨てないと説く、観無量寿経の光明四句の文の、最初の一句。  第9仏身観文の中にある。



第二十七     親 縁


 善導の三縁の中の、親縁を釈し給うに、

衆生、佛を礼すれば、佛 これを見給う。

衆生、佛を称うれば、佛 これを聞き給う。

衆生、佛を念ずれば、佛も 衆生を念じ給う。

かるが故に、阿弥陀仏の三業と、行者の三業と、かれこれ、一つになりて、佛も衆生も、親子の如くなるが故に、親縁と名付けるくと候ひ濡れば、御手に数珠を、持たせたまひ候はば、佛これを御覧候うべし。

御心に念仏申すぞかしと、思いし食し候はば、佛をも行者を、念じ給ふべし。

されば佛に、見え参らせ、念ぜられ参らする、御身にて、わたらせ給い候はんずるなり。

さは候へども、常に御下の、働くべきにて候ふなり。

三業相応の為にて候ふべし。

三業とは、身と、口と、意(心)とを申し候ふなり。

しかも佛の本願の、称名なるが故に、声を、本体とは思し食すべきにて候。

さて我が耳に、聞こえゆる程申し候ふは、高声の念仏の、内にて候ふなり。」『 勅伝 第二十三 』

善導大師は念仏を唱えれば、親縁、近縁、増上縁の三縁のよって阿彌陀佛と結びついていると説いているが、その中の親縁について次のように説いている。

「人が阿彌陀佛を礼拝すれば、仏はこれを見給う。

人が念仏を唱えれば、仏これを聞き給う。

人が阿彌陀佛を念すれば、仏もまたその者を念じ給う。

このように阿彌陀佛のお働きと念仏行者の身口意とが1つになって、仏と行者とはあたかも親子のような関係に結ばれているから、これを親縁という。」

念仏行者ならば手に念珠を持っただけで、仏はこれを見給うし、心で念仏を唱えようと思っただけで、仏は行者を念じ給うであろう。

そうはいっても常に声に出して念仏を唱えていなければならない。

それは行者の三業を仏のお働きと一致させるためである。三業とは身体で仏を礼拝し、口で念仏を唱え、心で仏を念ずることである。

しかし、仏の本願は念仏を唱えることであるから、声に出して念仏を唱えることが中心にならなくてはならない。

同じく声に出すにしても、自分の声で唱えれば、高声念仏のうちに入るのである。

さんえん【三縁】

念仏の行者だけが阿弥陀仏の救いにあずかる理由があるとする親縁、近縁、増上縁の三種の縁。

慈悲における三種の縁。衆生縁、法縁、無縁。

しんえん【親縁】

三縁(親・近=ごん・増上縁)の一つ。衆生が念仏を唱えて仏を礼拝し、心に仏を念ずると、仏もそれを知って、衆生と仏は互いに憶念し合う密接な関係にあるということ。

ごんえん【近縁】

念仏行者が阿弥陀仏の光明に摂取される三種の縁の一つ。行者が仏に会いたいと思うと、仏が行者の近くに来ること。

ぞうじょう‐えん(ゾウジャウ‥)【増上縁】 

浄土門でいう三縁の一つ。阿弥陀如来の名号を称念することにより、罪障消滅し、臨終の来迎に報いられるとする阿弥陀如来の本願。

さんごう(‥ゴフ)【三業】

身業と口業(くごう)と意業との称。身体動作、言語表現、心的行為の三つ。

さんごう‐そうおう(サンゴフサウオウ)【三業相応】    三業が、相応して、ばらばらにならないこと。

ほんがん(‥グヮン)【本願】

本来の願い。もとからの誓願。本懐。仏菩薩が過去世において、衆生を救済するために起こした誓願。阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二願など。本誓(ほんぜい)。

しょうみょう(‥ミャウ)【称名・唱(シャウ)名】

仏菩薩の名をとなえること。「南無釈迦仏」「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」などととなえること。念仏。

こうしょう‐ねんぶつ(カウシャウ‥)【高声念仏】 

こわだかに念仏をとなえること。また、その念仏。また、高声に念仏をとなえて托鉢(たくはつ)して歩くこと。


第二十八    来迎引接


 法爾の道理と云うこと有り。

炎は空に上り、水は、下り様になが流。菓子の内に、好き者有り、甘き者有り。

これらは、皆法爾の道理なり。

阿弥陀仏の本願は、名号をもて、罪悪の衆生を、導かんと誓い給れば、

只一向に念仏だにも申せば、佛の来迎は、法爾の道理にて、疑いなし。  『 勅伝 第二十一 』常に仰せられける御詞

天然自然の道理というものがある。

炎は空にのぼり、水は低い方に流れる。菓子には酸っぱい菓子があり、甘い菓子がある。

これらは何れも天然自然の道理である。

阿彌陀佛の本願は、罪深い悪人であっても念仏を称えれば、極楽浄土に往生させると誓い給うている。

ただ一向に念仏さえ唱えてさえいれば、仏の来迎を蒙ることは、天然自然の道理であって疑いのないことである

ほうに(ホフ‥)【法爾】  (「法として爾(しか)る」または「法として爾らしめる」の意)仏語。

存在や実践のあり方などがおのずからそうであること。本来あるがままの姿。自然。天然。法然。

どうり(ダウ‥)【道理】

物事のそうあるべきこと。当然のすじみち。正しい論理。「無理が通れば道理がひっこむ」

(形動)すじが通っていること。当然であること。もっともであること。「道理至極」

あみだ【阿弥陀】

(梵amitDbha「無量光」、または amitDyus「無量寿」を略した amita の音訳。阿は「無」、弥陀は「量」の意)西方浄土にいる教主の名。いっさいの衆生を救うために、四八の誓いをたてた仏。浄土宗、真宗などの本尊。この仏を信じ、その名を唱えれば、死後ただちに極楽浄土に生まれるという。弥陀。阿弥陀仏。阿弥陀如来。無量寿仏。無量光仏。*方丈記「阿弥陀の絵像を」

らいこう【来迎】  (近世中ごろまでは「らいこう」)

念仏行者の臨終に、阿弥陀仏が聖衆とともに迎えに来て浄土に連れて行くこと。


第二十九   対治慢心


 まことしく、念仏を行じて、げにげにしき、念仏者に、なりぬれば、よろずの人を見るに、皆、我が心には、おとりて、あさましく、わろければ、我が身の、良きままに、我はゆゆしき、念佛者にてあるものかな。

誰々にも、優れたりと思う成り。此の心をば、よくよく、慎むべき事なり。

世も広く、人も多ければ、山の奥林の中に籠もり居て、人にも知られぬ念仏者の、貴く目出度き、さすがに、多く有るを、我が聞かず知らぬにてこそあれ。

 されば、われ程の念仏者よもあらじと思う、假事(ひがごと)なり。 

此の思いは、大僑慢(きょうまん)にて有れば、即ち三心も、かくるなり。

又其れを、頼りとして、魔縁の来たりて、往生を妨ぐるなり。

これ我が身の、いみじくて、罪業をも滅し、極楽へも、まいることならばこそあらめ。

 偏に、阿弥陀仏の願力にて、煩悩をも、のぞき、罪業をも、消して、かたじけなく、手ずから自ら、極楽へ迎えとりて、帰らせましますす事也。

我が力にて、往生することならばこそ、我賢しという、慢心をばおこさめ。

僑慢の心だにも、起こりぬれば、心行必ず、誤る故に、たちどころに、阿弥陀仏の願に、背きぬる者にて、彌陀も諸佛も、護念し給はず。

さるままには、悪鬼の、為にも、悩まさるる成り。

返す返すも慎みて、驕慢の心を、興すべからず。あなかしこあなかしこ。『 勅伝 第二十一 』

実直に念仏を唱えていても、もっともらしい念仏行者になると、他の人たちを見て人々の心が自分の心よりも劣った甚だ至らぬ人のように見えてくる。

自分は真実に精進している立派な念仏者であると自負するようになり、誰れ誰らよりも勝れていると思うようになる。このように慢心すうrことは、よくよく慎まねばならない。

世間は広いし人も多いのであるから、山の奥や林の中に篭って暮らしていて人に知られていない念仏行者の中には、尊く立派な人がやはり多いのである。

ただ聞いたことがないために知られていないだけのことである。

従って自分程に勝れた念仏行者は他にあるまいと思うのは間違いである。

このように自分だけが勝れていると思うのは大僑慢であって凡夫という自覚がなく三心を欠いた人である。

もし僑慢の心を起こすと、それに付け入って名聞利養を求める魔縁が近づいて、その人の往生妨げることになる。

それはわが身の勝れた修行によって罪業が滅せられ、極楽往生ができるのであると考えるからである。

そうではなくて念仏を唱えれば阿彌陀佛の慈光に浴し、煩悩を除いて罪業を消すことができるし、かたじけなくも来迎し給うた阿彌陀佛が手ずから行者を蓮華台に迎え、行者を導いて極楽浄土に帰り給うたのである。

自分の力によって往生できると思うからこそ、己れの才知が勝れていると思う慢心を起こすのである。

もし僑慢の心を起こしたとすると念仏の心も全く違ったものになり、そのまま阿彌陀佛の本願に背くことになって阿彌陀佛も諸仏も護念し給わぬのである。

そうなれば悪鬼邪神が近づいて、悩まされることになる。

返す返すも自ら慎んで僑慢の心を起こしてはならない」

げにげに‐鰍オ【実に実にし】 〔形シク〕

肯定し納得できるさまである。道理にかなっている。*無名抄「和歌の会の有様の、げにげにしく優に覚えし事は」  特に意図的に真実らしく見せるさまである。まことしやかである。まじめくさっている。*徒然草‐七三「げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして」   人の心の誠実なさま。実直である。まじめだ。信頼できる。*徒然草‐三七「今更かくやは、など言ふ人もありぬべけれど、なほげにげにしく、よき人かなとぞ覚ゆる」
げにげにし‐げ(形動)/げにげにし‐さ(名)

ひがごと【僻事】

(「ひがこと」とも)道理や事実と違ったこと。間違った事柄。心得違いのこと。

きょうまん(ケウ‥)【驕慢・p慢】

(形動ナリ・タリ)偉ぶって人を見くだすこと。おごりたかぶったさま。

さんじん【三心】     (「さんしん」とも)

極楽往生を得るのに必要とされる三種の心で、「観無量寿経」に説く真に浄土を願う至誠心、念仏によって往生を得ると深く信ずる深心、念仏の功徳をすべて回向して、往生したいと願う回向発願心。

まえん【魔縁】

人の心をまどわし乱し、種々の妨害をする悪魔。魔王。また、その障害。

しょぶつ【諸仏】

さまざまな仏や仏像。

ごねん【護念】

仏が衆生を心にかけて守護すること。また、守護しようと念じていること。

あっき(アク‥)【悪鬼】

たたりをなす妖怪(ようかい)。怨霊(おんりょう)、あるいは夜叉(やしゃ)などの悪鬼神。  ならず者などをののしっていう語。わるもの。悪漢。ごろつき。  「あっきせりふ(悪鬼台詞)」の略。  (形動)悪鬼のように恐ろしいさま。*浮・当世宗匠気質‐四「あっきな嚊めなれば」

あなかしこ

〔連語〕(「あな」は感動詞、「かしこ」は形容詞「かしこし(畏)」の語幹。「穴賢」は当て字。恐れ慎み、恐縮する感情などを、感動的に表わす慣用句)

1 恐れ慎む気持を表わす。@(尊いものに対して)ああおそれ多いことよ。もったいないことよ。*竹取「あなかしことて、箱に入れ給て」A(恐るべきものに対して)ああ恐ろしいことよ。*源氏‐行幸「少々の人はえ立てるまじき殿の内かな。あなかしこ、あなかしこ」

2 相手に対する呼び掛けの言葉。恐れ入りますが。失礼ですが。*紫式部日記「あなかしこ。このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」

3 相手の言動をたしなめ規制する気持を表わす。そんな憚(はばか)り多いことを言ってはいけない。そのようなことは慎みなさい。とんでもないことです。また、下の禁示表現と呼応して、決して、の意を表わすことがある。*宇津保‐楼上上「あなかしこ。ゆめ聞き入るな」

4 (おそれ多く存じます、の意で手紙文の文末に用いられて形式化したもの)相手に敬意を表わす仮名書状の用語。多く文言の終わりにおかれるが、まれに初めに書かれることもあり、男女ともに用いた。かしこ。かしく。*宇津保‐楼上下「『つきせずおもひ給ふる、あなかしこ』ときこえ給ふ」


第三十    一期勧化


 法蓮房申さく、古来の先徳、皆その遺跡有り。

然るに、今精舎一宇も、建立無し。御入滅の後、いずくも、もてか、御遺跡とすべきやと。

上人答え給はく、後を、一廟にしむれば、遺法普ねからず。

予が遺跡は、諸州に遍満すべし。

故如何となれば、念仏の興業は、愚老一期の勧化成り。

されば念仏を、修せん所は、貴賤を論ぜず、海人魚人が、とまやまでも、皆これ、予が遺跡なるべしとぞ、応せられける。『 勅伝 第三十七 』

法蓮房信空が尋ねていった。

「古来の先徳にはすべて遺跡があります。

ところが今もって堂宇一つお建てになったことがありません。

もしご往生になった後には、どこをご遺跡としたらよいでしょうか?

上人答えていった。「遺跡を一つの堂に決めるとすれば、念仏の法門が行き渡らぬことになる。

自分の遺跡は全国津々浦々に行き渡るであろう。

何故なら念仏の法門を広めることは愚老が生涯を通じて勧めてきたことである。

されば、念仏を唱える者がいる所は貴賎を論ずることなく、海辺にある漁師の小屋にいたるまでがすべて自分の遺跡となるのである。」

せんとく【先徳】   (「せんどく」とも)

徳のある先人。有徳の先輩。また、先人の徳。先賢。  死亡した高徳の僧。また、前代の有徳の僧。

ゆいせき【遺跡】

ある人、また事件に深い関係のある場所、また建築物のあった跡。いせき。  故人ののこした領地、官職など。遺領(ゆいりょう)。また、それを相続する後嗣。跡目(あとめ)。いせき。

しょうじゃ(シャウ‥)【精舎】

(智徳を精練する者の屋舎の意) 僧侶が仏道を修行する所。てら。寺院。「祇園精舎」

にゅうめつ(ニフ‥)【入滅】

(「滅」は滅度。人間の迷いを捨てて悟りの境地にはいること)涅槃にはいること。特に、釈迦の死をいう。また、高僧などの死。

びょう(ベウ)【廟・L】

死者の霊を安置する堂。また、皇族など高貴な人の霊をまつった殿堂。たまや。霊廟。宗廟。 神社。やしろ。ほこら。 王宮の正殿。王宮の前殿で政治を行うところ。朝廷。

ぐろう(‥ラウ)【愚老】      〔代名〕自称。老人が自身をへりくだっていう語。



第三十一


 念仏の行を、信ぜざらん人に会いて、御物語候はざれ。

いかに況や、宗論候ふべからず。

強ちに、異解異学の人を見て、これを、あなずり、そしる事候うべからず。

いよいよ、重き罪人に、なさん事不便に候うべし。

極楽を願い、念仏を申さん人をば、塵刹の外なりとも、父母の慈悲に、劣らず思し食すべき成り。

今生の財宝ともしからん人をば、力を、加えさせ給うべし。

もし少しも、念仏に心をかけ候はん人をば、いよいよ御勧め候うべし。

これも彌陀如来の、本願の、宮使いと思し食し候べし。」

『 勅伝 第二十五 』

念仏の行を信じていない人に会ったときには、念仏の教えを話し合わないで下さい。

まして他宗の人々と法門の優劣を論じ合ってはなりません。

自分と違う法門を信仰している人をみて、むやみに軽蔑してり謗ることがあってはなりません。

相手を非難すれば、相手もまた念仏を悪くいうことになり、その人をますます重い罪人にすることは不便といわなくてはなりません。

もし極楽往生を願って念仏を唱えている人があれば、どのような遠隔の人であっても、父母が子を思う慈悲に劣らぬ情けを掛けて助け合わなくてはなりません。

もし現に財宝が乏しく困っている人があれば、何かと援助を与えてやって頂きたい。

少しでも念仏に関心を持っている人があれば、ますます念仏に励むように勧めるのです。

これも阿彌陀佛の本願に仕えている者のご奉公であると思って下さい。

いがく【異学】

自流と相いれない学派、宗派。また、正統でない学問。

特に、近世幕府が正学と認めた朱子学以外の儒学をいう。いわゆる「寛政異学の禁」で禁止。→寛政異学の禁

 

ふびん【不便・不憫・不愍】   (形動)

(1) (不便)都合の悪いこと。不都合なさま。*枕‐一〇三「かかる雨にのぼり侍らば、<>いとふびんにきたなくなり侍りなん」

(2) (「不憫・不愍」は当て字)

かわいそうなこと。気の毒なさま。*源氏‐野分「涙もろにものし給へば、いとふびんにこそ侍れ」

かわいいと思うこと。「末っ子は親のふびんがまさる」*宇津保‐吹上上「いとふびんなる人がら」

じひ【慈悲】

(「慈」は梵maitrL、「悲」は梵karu、Dの訳語)仏語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。

(形動)いつくしみあわれむ心。また、なさけ深いさま。「慈悲をたれる」*宇津保‐俊蔭「親のかへりみの厚く、慈悲の深かりしを捨て」

「慈悲をする」の形で、あわれんでなさけをかけること。また、「お慈悲でございますから」などの形で、あわれみを請う意の慣用表現としても用いる。

「じひしんちょう(慈悲心鳥)」の略。

慈悲の粧(よそおい) 僧侶の装束。転じて、僧侶。

みやづかう(‥づかふ)【宮仕う】  〔自ハ下二〕

宮を造営する。宮殿を造ることに奉仕する。*万葉‐一〇三五「いにしへゆ宮仕けむ多藝の野の上に」

宮廷または貴人の邸に仕える。宮仕えをする。奉公する。

貴人などに仕えて、身の回りの世話などをかいがいしくする。忠勤をはげむ。*とはずがたり‐一「ねいらで宮づかへ、女房はなにごともこはこはしからず」

神仏に奉仕する。*地蔵菩薩霊験記‐一一「人々の御為に地蔵菩薩にみやづかへ奉て」


 元祖大師御法語(前編)終る

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 更新日         05/06/27  

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