更新日08/06/07 一口放(法)談  毎月始めに更新しております。月刊誌「長命」より

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平成18年

 


12月1月

白黒の ネズミ教えし 有限と

一歳歳を取ることになるお正月。

時間はあっという間の過ぎ去った時間である。

仏教説話に(下)にネズミが登場する。出てくるのは白と黒のネズミ。

藤の蔓を白いネズミと黒いねずみが交代で噛みちぎっている。蔓は次第に細くなりかくじつに切れるのは時間の問題である。

白いネズミはお昼の時間を表し、黒いネズミは夜の時間を表している。

藤の蔓は私の命である。

寿命を昼と夜のネズミと言う時間をかけて段々と短くなってきていることを表している。

限り有る=有限である命の中で私達は生きている。命はみじかいとおもっているのに、時間を忘れて蜜に溺れている。面白い物を見ては楽しみ(眼)人の悪口を聞いて楽しみ(耳)花を弄び(鼻)グルメ三ツ星と美味しい料理を楽しみ(舌)温泉、布団と快楽(身)と、快楽という5つの甘い蜜(眼耳鼻舌身)を楽しんでいる。

快楽を求めた結果が意の中にある。

11月

人のふり見て、わがふり直せ。

お正月がくる頃になると大掃除が始まる。

ある人がいてお正月前の大掃除をしようと思っていたが、なかなか掃除がてにつかない。

お昼休みにお向かいのいえの障子が破れていた。

「お向かいさんはお正月がくるのにまだ障子を張り替えていない」

と悪口を言っていた。

何処から覗いていたか?と申しますと、お向かえの障子を自分の家の破れていた障子の穴から覗いていたのである。

自分の家の障子が破れているのに気づかず、人の家の破れた障子には気づくのである。\(~o~)/

このように、人間にはおもしろい傾向がある。

自分のことは気づかないが他人の事となると気づきやすいのである。

自分は近すぎて分かりづらいが、他人のことに関しては気づき易いのである。

自分が一番の天敵である。


10月

一大事 因縁(いちだいじ いんねん)

一般に「一大事」といえば自分にとって人生の岐路に立たされることであるが悪いことに使われることが多い

同じように「因縁」も悪いことに使われている。

一大事因縁とは

@お釈迦様

お釈迦様がこの世にお出ましになって、仏の教えに気づいたことであり、お悟りを開かれたことである。

A法然上人

法然上人が9歳で夜討ちに遇いその時の父のご遺言によって武家から仏道に出家し南無阿彌陀佛の教えの遇う因縁があったことである。

B私

この宇宙の中で人間がうまれたことである。 人間のご先祖様は生物学的にはアメーバ。そのアメーバから人間へと進化した私が父母を縁として生まれた事が一大事因縁である。

その私の身体の中に絶えず60兆の細胞が生まれ変わり死に変わりこの私の身体を維時し続けている。

一大事因縁−−宇宙の意思(仏の願い)である。


 

9月

小さなハチと仏さま

お盆も済みやっと一安心といったところですいろいろとご協力頂きまして終えることができました。

金子みすずの詩に

「はちと神さま」がある。

はちはお花のなかに、お花はお庭のなかに、お庭は土塀のなかに、土塀は町のなかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまはち小ちゃなはちのなかに。 

と詩っている。

ハチは小さい生き物であるそれが大きな神さまの中にある。大きな神さまは小さなハチの中にある。

この世は彼岸であり、また彼岸がこの世である。

ハチは私達であり、神さまは仏さまでもある。

ちいさな私達。大きな仏さま。


 

はちと神さま   (金子みすず) 

はちはお花のなかに、

お花はお庭のなかに、

お庭は土塀のなかに、

土塀は町のなかに、

町は日本のなかに、

日本は世界のなかに、

世界は神さまのなかに。

そうして、そうして、神さまはち小ちゃなはちのなかに。 


 

7.8月

亡き人に 導きられし 盆の夕

お盆の季節がやってきました。亡き仏さま、生きている仏さまが帰って来られる。

亡き人に目には見えないお導きを頂きながら、この私を生かしてくださり、イザ困った時には、今流行の「千の風になって」迷い苦しんでいる私達の所に即座に飛んで来て下さる。

仏教ではこれを六神通のなかの神足通という。

お盆には、その亡き仏さまに自分の家にお招きし、また仏様の所に帰って頂く。

お盆のお供えをして招き、お供えと同時に、この私の心の感謝、報恩という領収書、お願いという請求書を目には見えないけれど心をお供えするのである。

若い時には、このお供えが大変(苦)であったが、歳を重ねると案外楽しいものである。

「おかえりなさい!」と声をかけ、たいしたものでないけれど、ソーメンをお供えする。

「このお盆はあついですね!〜」とまるで生きているように・・・・話しかけてお盆を過ごすのである。

これは、他人が見るとコッケイに見えるが当の本人はイタッテ真剣である。


6月

日々是好日 雨奇晴好

雨の季節を迎え、ジメジメした季節になる。普通はいやな季節でもある。

日々是好日、雨の日も晴の日も良き日である。

ある母親があって、息子が二人1人は団子屋もう1人は傘屋であった。 

雨の日は団子屋の息子が儲からんと愚痴を言い、晴れれば傘屋が儲からんと愚痴を言っていた。

これでは日々是悪日である。

見るめを変えると晴の日は団子屋の息子が儲かり、雨の日は傘屋の息子が儲かる。

こうなって日々是好日になる。

これが心の転換である。

雨の日は紫陽花の花が喜び、晴の日は稲がスクスク伸びる。

人間も晴の日雨に日がある。自分勝手の都合によることが多い。

日々是好日で過ごしたいものである。  合掌


5月

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり

(道元禅師どうげんぜんじ)

年々春の桜の花見をしているが、この桜と何十年と花見をしてきたのであろうか?

人間として生まれてきて、人生80年の生活の中で60歳までは地位名誉財産を積み重ねてきた。

日本の四季の中で生まれて育てられ教えられながら人生を渡ってきたからには、自然の贈り物の四季を楽しむのが日本人である。

俳句、短歌、茶道等は日本文化の中に四季を取り入れ四季を楽しんでいる。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり」と道元禅師は歌っている。

唯楽しむだけでなく、その自然の中に私も一体となって自然に溶け合って行く中に心が「涼しかりけり」と道元禅師が歌っている。

「涼しかりけり」と何事が合っても動じない心が阿弥陀様の心である。


4月

千の風になって

先月、柳井高校のスプリングコンサート(音楽会)で「千の風になって」というのを歌っていた。

年末の紅白歌合戦ではじめて聞いて今回で二度目であった。

今や日本ではCD売り上げナンバー1となりカラオケ、音楽会、クラシック等ちまたで引っ張り凧の曲となった。

境遇が合った方には、心和み魂が宇宙の彼方まで響きわたる。 

そして、あなたのそばにも。♪〜♪〜♪〜

 

千の風になって    新井満 訳

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって 
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

続きはHPへ 


4月号で「長命」は200号となりました。感謝

20年。長い間でした。

地道に号を重ねて今回で200号となりました。

簡単なようで初めは結構むずかしかった。

今では頭の回路が自然に働くようになった。

すこしは皆さんの心に届いているのでしょう。

いろいろと号によっては感激の声が。

また身に沁みる声が届けられるようになりました。

技術面では、白黒コピーで方丈さんの鉛筆の字から、

今はパソコンより直接カラーコピー機に印刷するようになりました。 

これからもよろしくお願いします。

 


3月

御仏は 生きよ活きよと 育てたり

人生50年から80年になった。

戦時中は戦死者が多かった。

今は自殺者が多い。

年間3万人を超えている。

2/3は男性で1/3が女性である。

借金地獄では1/5で命を落としている。

80パーセントは裕福な生活者である。

昔では考えられない人が自殺に追い込まれている。

 その原因の一つに物に満たされ、お金を出せば物を買える時代になったからである。

昔もそうであったが、昔は物に関して買うと同時に夢も買っていた。

今は物だけ買って夢はない。

心(欲)そのものが無くなってきているようである。

私達のからだの中にも髪の毛が生え、爪が伸び、自分では量り知れない大きな力が生きよ活きよと沸いている事に気づかせて頂きたい。

御仏は 生きよ活きよと 育てたり


長命 B面より 

自分の心は分かっているようだけど実はぜんぜんわかっていない?

光と影

「眼、眼を見ず。火、火を焼かず。心、心を知らず。」 

眼は何でも見えるんですが、自分の眼が見えない。

鼻さえ見えない。そうでしょ。

火、火を焼かず。

火は何でも焼きますが、火が火を焼くことばございません。

心、心を知らず。

自分の心というものは、なかなか自分でわからないのでございます。

「影は光によって生ずる」。

真夜中、一暗闇ですと影がございません。

朝、お天道さまが出ていらっしゃると、それにふさわしい影が出てきます。

それと同じように、念仏を申さない間は、如来さまのお光明をいただかない間は、自分の罪悪の影に気付かないのであります。

ですから、最初は、我々も煩悩の我であるということを信じて、お念仏申しているうちに、お光明がいただけてまいりますと、自分の罪悪に気付かせていただく、初め信じておったものがわかってくるのです。

その自分の罪悪に気が付くから、阿弥陀さまにおすがりする気持ちが強くなって、真剣な念仏が出る。

五重勧誡より(藤堂俊章台下)

 


2月

蝋梅や 朝日に映えし 仏かな

(ろうばいや あさひにはえし ほとけかな)

昨年より、蝋梅が少し遅れ気味に花が咲くようになった。地球の温暖化傾向であるようように思われる。

一説によると臘月(旧暦の12月)に咲くから蝋梅と呼ばれるいるようである。

その代わりに、木瓜(ぼけ)が台風の影響で咲き出した。

蝋梅(ろうばい)の花の色は黄色で包まれている花は、まるでローソクわ塗ったかのように艷が出て朝日の光に輝くから、蝋梅と呼ばれる由縁である。

蝋梅の花の黄色と朝日の金色(こんじき)とがあいまって、花が金色に輝いて見えるのである。

その花の姿が仏様の金色になる。

「蝋梅や 朝日に映えし 仏かな」

無数の仏が朝日に輝いて見えるのである。

「金色におう 東雲の 今朝の光の なつかしさ 映るお慈悲の  御姿に 空も心も あさみどり」(田中木叉上人詠)と


「長命」 月刊誌 2月号 裏面

美しく 老いる ために

 もう直ぐ 団塊 ( だんかい ) の世代が退職を迎える。第二次世界大戦で日本は敗戦国となり、

アメリカ等は勝利国となって、戦争が終わった。

団塊の世代は戦争を知らない子供の初めとなり、金の卵として日本社会に 貢献した。

その団塊の世代がここ三年を掛けて退職を迎える。

ここに新しい老人の卵が生まれつつあるのである。

この団塊という新しい考え方で人生の秋を飾ってほしいものである。

六十代はある程度身体が言うことを利くが七十代になると老化現象が少しずつ現れてくる。(自分では若いと思っているのに)

ホイットマンの詩に

女あり二人行く 若きは麗し 老いたるは なお ( うる ) わし

ホイットマンの見違いではない。

女二人の違いは内面の違いである。

外面は年齢により比較が出来ないのであるが、内面から 湧き出る ( わきでる ) 心の 高揚 ( こうよう ) がある。

人生の達人になった証でもある。

そのためには日々の生活の中で「感謝・活動・規則」の正しい生活を送るのである。

日々の生活に感謝し、日々に活動(身体を動かす)、日々に規則正しい生活を送る中に、美しく老いてゆくのです。

ここに、今まで無かった新しい人生の目標がある。

瀬戸内寂聴さんもおしゃっている。

「見事な老人になる以外に救いはないと思う。」

あと二十年、三十年後を団塊の世代の生き方で見事に飾ってほしいものである。合掌

 


 

12月1月

秋尋ね 雪装いし 山眠る

先日広島三段峡、島根匹見峡に行って来た。

12月だったのでお店がしまっていた。

行くときは秋の紅葉狩りであった。 

三段峡は少し山の頂上が雪景色で遠崎の人には珍しい風景であった。

三段峡から匹見峡に行くときに、山と道路まで雪でチェーンをタイヤに巻きつけて3キロ程走り、

チェーンをまた外してゆきは困難であったので益田から天文台の日原へ出て六日市「ゆらら」岩国玖珂を通って帰宅した。

匹見峡ならぬ雪見峡になってしまった。

自然の力にはどうしょうもないと思った。

遠崎では季節特に冬を感じることが他のところより遅いのだが、山々でか確実に秋から冬の装いがはじまっていた。

秋を尋ねていったつもりが、実は冬を尋ね、雪景色を見にいったようである。

「秋尋ね 雪装いし 山眠る」雪の白く美しい白さ純白である。

日本人の美意識の中の雪月花の一つである。

雪を何故「ゆき」と発音するようになったのか?

や行は音が柔らかいその柔らかさと雪の柔らかさ、又凛とした緊張感の肌寒さが万葉人古来の日本人の心の意識がある。

ユキと呼ばせた先祖である万葉人に感謝したい。