更新日08/01/31 一口放(法)談  毎月始めに更新しております。月間誌「長命」より

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一期一会

「逢うて別れて 別れて逢うて  泣くも笑うも あとやさき
  末は野の風 秋の風  一期一会の 別れかな」

井伊直弼(いいなおすけ)の著書(ちょしょ)「茶湯一会集」にあります。


出会いひとつとってみても、楽しい出会いもあれば、また悲しい出会いもあります。

楽しい出会いが、一転して悲しい別れになることもあります。

まさに「泣くも笑うもあとやさき」であります。


「一期」とは、わたしたちの一生涯のことで、「一会」とはただ一回の出会いということであります。

つまり、一生涯でたった一度の、めぐり会いをしていることをさしています。


 ふつう、わたしたちは人や出来事に何度も出会っています。

よくよく考えてみますと、その時の出会いはその時の一度だけで、

二度と同じ機会がもどってくることはないのですから、

何度出会いを重ねても、やはり毎回「一期一会」になります。

 

よき出会いを!!!!!


11月

劫初より つくりいとなむ 殿堂に われも黄金の 釘一つ打つ

与謝野晶子

 おかげさまで庫裡改築の工事も順調に開始されました。平成2年に前の庫裡部分を改築し、あれから13年経て後の庫裡部分を改築するにいたりました。

 前の部分は350年シロアリさんと共に持ちこたえ?裏の庫裡は本堂と同じ144年前に造られたものです。

 思えば母が「先住が庫裡を建て替えねば!」と言っていたと、語っていたことを思い出します。一代遅れて立替となり、浄土より応援してくれているような気がします。

 与謝野晶子さんの詠に「劫初より つくりいとなむ 殿堂に われも黄金の 釘一つ打つ」とあります。

 これは、「遠い昔から、人々が築き上げてきた殿堂に、私も小さな釘を打ちたい!たとえ小さくても黄金の釘を!」という意味で創られた。

ご協力感謝申し上げます。     合 掌


追記    春風を以て 人に接し 秋霜を以て 自らを慎む

(しゅんぷうをもって ひとにせっし しゅうそうをもって みずからをつつしむ)日本の儒学者 佐藤一斎 『言志後録』

 春風のような柔らかい心をもって人様には接してゆき、自分に対しては秋の霜のような冷厳さをもって自分を裁いていきたいものでございますね。

 自分を褒めて、他人の悪口をいって、他人をこわすようなことがあってはいけない。

自慢ほど嫌なものはございませんね。これは自分と他人とを比べるから自慢したくなるんです。

信仰に入った以上は何もかも阿弥陀様と比べていただきます。

そうしたら自慢するような所はひとつもないはずですね。

これを人様と比べるから具合が悪い。

 あの奥さんの服に比べたら、あの家の子どもに比べたらと、何もかも人様と自分、人様の物と自分の物と比べるから具合が悪いのでございます。

 我々はえてして人様に対しては検事になり、自分に対しては弁護士になりやすいものでございます。

人に対しては検事になり、徹底的に相手をあばいていきます。

 しかし、自分に向かっては百言、言葉を弄して自分をあくまでもかばっていきます。弁護士になります。この逆をやらないといけないのですね。

 自分には検事になって自分の自己反省をし、自分の悪い所を徹底的に反省していく、人様に対してはいい所を見出して弁護してあげていく。

 そういう態度をとっていくということが、我々には生きていく上に大切ではなかろうかと思うのでございます。

春風を以て 人に接し 秋霜を以て 自らを慎む

こういう態度が必要だと思います。

これの逆をやるからいけないんですね。

 人様に対しては秋の霜のような冷厳さをもって接し、自分に対してはやわらかい春風で接していくからいけないんだと、私は思うのでございます。

参照:  藤堂俊章 台下 著 「授戒講話」 p173 no7.不自讃毀他戒(ふじさんきたかい) より

 

10月

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる

四季が移り変わり本格的な秋の訪れを感じる頃になりました。

季節「春夏秋冬」というものは「物」ではありません。これが秋です。と目の前に差し出すことが出来ないのです。

神仏も同じようなもので、これが神です。これが仏です。と差し出すことができないのです。

「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」と藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が「古今和歌集」に詠んでいます。

若い頃には、神も仏もあるものか!と威勢を利かせていたが、自分の身体がいうことをきかなくなって、初めて神仏にすがるわが姿であることに驚いていた。

目には見えないけれど、秋の風に、もう秋なんだなぁ〜と感じ、驚いている。

同じように神仏も自分とは関係なかったけれど、いつしか神仏にすがるようになった。と驚いている。秋と神と仏、そして自分を楽しんで下さい。


9月

秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七草の花

今年の夏は春過秋冬で夏が過ぎたかと思いましたが、残暑がきびしくなりました。

「稲の不作はマツタケ豊作」、「お里が良ければお山は悪い」「山豊作、里不作」とお米の出来が悪くなりそうですが、最後の追い上げ(残暑)で何とかなりそうです。

「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように秋が近づいております。

秋の花の代表に七草があります。山上憶良(やまのうえおくら)が万葉集にその詠を載せています。

「萩の花 おばな葛花、撫子のこのはな女郎花 また藤袴 朝顔の花」

と物悲しい秋を演出して私たちを楽しませてくれます。

また夜長には中秋の名月11日と今年はもうひとつ火星というお客様がお見えになっております。丁重にお迎えをし、コオロギや鈴虫たちのコーラスと一緒に楽しみたいものです。


7月・8月

世界中で 輝やかせる オンリー・ワン

SMAP(スマップ)の「世界の一つでけの花」といううたがヒットしている。今年の一番の歌ではないか?と思います。槙原さんの作詞作曲である。

景気の悪い?中、暗い話ばかりで耳が腐りそうになりますが心が和む歌である。

大人、子ども、男、女、いろんな人がこの世の中には生きている。生きている中では競争、同調、対話、協調を重ねている。

大人には大人の考え方、生き方。子どもには子どもの考え方』生き方がある。

阿弥陀経(あみだきょう)には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」とあります。

人のも花にも、それぞれの色や人柄があり、光や雰囲気をかもし出している。もちろん誰にも、どんな花にもまねの出来ない1人の人柄でさり、一つの花である。

お盆を迎え、生きている私たちの花で、ご先祖さまを迎えましょう。


6月号

与える時は、人は豊かになり、おしむ時、命は貧しくなる。

電車に乗って前に老人?がたっていたらどうしますか?自分の席を譲ってあげようとおもいますよね!

その席を譲ってあげる時の気持ちを考えてください。みなさんが譲ってあげた時に相手から「ありがとう!」っていわれることばかりではありません。

その時にいつまでも若い思っている?人は相手から「あなたの方が歳でしょ!」

相手の人が若いと思っている?と「失礼ね!私は年寄りではないわよ!」とかえっておこられる。

これだから、世の中がおもしろい!色々な思いの立場でこんなに違いが出てくる。

せっかく席を譲ったのに「譲らなければよかった!」と後悔するのが常でしょう。

仏の教えの一つに「布施(ふせ)」がある

物、あげる人、もらう人

この3つが見返りを求めてはいけない!

(三輪清浄 さんりんしょうじょう という。)

席を譲ったから「ありがとう」と言え!座る人は「すみません」と言え!

こういうことでは見返りを期待して譲るのですから、お礼の言葉がなかったら、腹が立つ元となる。

御礼をいわれなくても、自分からそっとその席を立って、去っていくのが今の時代よいのでしょう。

お礼を期待しない席の譲り方で心豊かにしましょう。


5月号

 草も木も からくれないに 見ゆるなれ 赤き眼がねを かけし人には

草花が春の訪れとともに、咲き誇っています。無心で咲いているのに人の眼にはいろんな映り方があるようです。

参道のチューリップの花もきれいに咲き乱れ今年は多く注文致しまして、インターネットでクリックを1回多く致しましたら、600個のチューリップが届き大騒ぎでした。でも、皆さんが喜んで見てくれて、お花の発表会も盛大に?終りました。

ところが、人間さまには悲しいかな!貪・瞋・痴という煩悩がありまして、これらが私たちの心を弄んでいて、人によって、物の見方が変わってくるのです。

欲という貪りの心。

腹を立てるという瞋りの心。

あ〜でもないという愚痴の心。

貪りは顔が青くなり瞋りは赤くなり、愚痴は黒くなる。

欲という貪りの心の持ち主は、

草も木も 小金の山に 見ゆるなれ 青き眼がね をかけし人には

腹を立てるという瞋りの心の持ち主は

草も木も からくれないに 見ゆるなれ 赤き眼がねを かけし人には

あ〜でもないという愚痴の心の持ち主は

草も木も 真っ暗闇に 見ゆるなれ 黒き眼がねを かけし人には

皆さんはどの眼がねで世間様、人生を見ていますか


4月号

もの皆の 底に一つの 法ありと 日にけに深く 思いいりつつ

(ものみなの そこにひとつのほうありと ひにけにふかく おもいいりつつ)  湯川秀樹博士

 今春は桜前線が 25センチ/秒 という速度で北上している。決まりきった(当たり前)春が今年も間違えずにやってきた。

天地宇宙のありとあらゆるもののお陰で活かされているこの私。そのありとあらゆるものという「もの」をよくよく考えてみると湯川秀樹博士の「目に見えぬもの」の著のなかに

もの皆の 底に一つの 法ありと 日にけに深く 思いいりつつ

とうたっておられる。世界の大科学者は天地宇宙のどのものをとらえてみても、その根底には目には見えないが、必ず一つの法則がある、キマリがあるといわれている。宇宙の事を「コスモス」というが、もともとの意味は、秩序という意味だそうです。

その秩序法則が働かさせているのが仏様の意思でないかと思います。御経には「仏様の目の大きさは地球の四大海水のようである」と説かれています。

今年も間違いなく春の訪れに、花見見物と一緒に天地宇宙のお陰の感謝いたしましょう。 

花見のお酒の飲みすぎにご注意下さい。


3月号

火の車 作る大工は おらねども 己がつくりて 己が乗り行く

(ひのくるまつくるだいくはおらねどもおのがつくりておのがのりゆく)

みんな幸せになりたい!と思っているけれども、何故わたしだけが?・・・・悩んでおられる方もあおりでしょう!

自分と他人(相手)とは考え方、生活環境、若い人、老いた人、子ども等自分も相手もおかれている環境(立場)の違いに依って意見、考え方、価値観が食い違ってきます。

昔、アレキサンダー大王がパキスタンに攻めてきた時も考え方(文化)の違いによって攻められました。その時に、日本に伝わった仏教が出来たといわれています。

考え方や価値観の違いが新たな、新しい価値観を見出したのです。

私達も意見や価値観の違う人と話し、新しい価値観を見出さなければならないのですが、ここで邪魔をするのが自分をいうオレガの心です。自分の存在を認めてもらいたい!自分の考え方を押し付けたいばかりに争いと発展してゆく悲しい人間です。

自分で火の車を作っていることに気づかせて頂くのが、お念仏です。


 付録 「おしっこ と 甘酒」 避けては通れないこと!

 人生には、いくら避けようと思っても避けることができない出来事というものがあります。「今良寛」と呼ばれてきた鎌倉の建長寺の名僧 菅原時保老師が小僧の時分に体験したものでした。 

ある時、お檀家の七日に代理に行きました。お経を唱えていますと、来客があって奥さんが出ていきました。脇では赤ん坊がシャモジを持って遊んでいました。

やがて、赤ん坊はおしっこをもらしそのシャモジでおしっこをいじり始めました。そして、シャモジをおひつの中に入れてしまったのです。 

時保さんは止めようにもお経の途中でどうにもなりません。足を伸ばして子どもを制しようとしているところへ奥さんが戻ってきました。「時保さん、ありがとう。御礼にご飯を用意しましたのでたくさん食べてくださいね〜」 

さっきの光景を見ていた時保さんはあわてて腹を押えて、「今日はおなかをこわしているので」と言って逃げて帰りました。また七日のお参りに行きました。こんどは赤ん坊はぐっすり寝ていましたのでホットしました。

その日は丁度寒い日でしたので、甘酒を出してくれました。大好物だったので、時保さんは何杯もお代わりをしました。

そして、御礼を言って帰ろうとした時、奥さんが「この甘酒は、この前召し上がらなかったご飯でつくったのですよ!」と一言。

時保さんは シマッタ!と思いましたがあとの祭りです。 

「生老病死」の苦からは逃げられない! 避けては通れない。


2月号

「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

 立春を過ぎますと、もう春間じかになり、山々が眠りから覚め始めます。その証拠にウグイスたちの声が聞こえてきています。

タケノコさんたちもウグイスに遅れないようにノコノコと顔を出してきました。

さて、この春に出会えることは、有ること難しです。

父母を縁として生まれてこなければなりませんし、健康でなければ春に出会えませんし、寒いシベリアでもなく、暑い砂漠でもない四季のある所でなければ春はないのです。さまざまなお陰(縁、環境)によってこの春に出会えたことである。

良寛さんの歌に

「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

日本の四季のすばらしさを良寛さんは詠っていますが、悲しいかな罪悪生死の私たちには、寒ければ、温かくならないのか!暑ければ、涼しくならないのか!と小言の毎日です。

この寒さがなければ春という温かさを感じない愚かな者です。

今冬は、お正月から積雪で交通機関が混乱していました。丁度私も珍しい雪の中を車で移動中でした。慣れない雪道を走り、またこれ、慣れないチェーンをタイヤに巻くのですが、寒さに手が凍える上、チェーンなんか使ったことがなくて、大変なものでした。

チェーンを装備してやっとのことで山を超えて、トンネルを抜けるとそこは暖かい小春日和でした。川端康成の「雪国」を裏切ってホッ!としました。寒い積雪が無ければ、春という暖かさががわからない愚か者ということに気づかせてもらったのでした。

 


 

12月号・1月号合併号

「われ元極楽にありし身なれば、定めて帰り往くべし」

年末の師走になり、忙しくなってきました。先生(師)が走るとかきまして「師走」何故走るのか?。

それは歳の瀬の〆切を目前にして、新年のお正月を迎えるためである。本年にお世話になった人々に感謝の意を表すための、「お歳暮」。借金の返済等。

目的は「新年を迎えるためです」その為に忙しく走るのです。

  さて、人生にも、年の瀬なる最後という「臨終」というものを迎えるのです。

  法然上人は建暦2年正月23日に「一枚起請文」を書かれ、2日後の25日に

「われ元極楽にありし身なれば、定めて帰り往くべし」

わたしは元々極楽にいた身の上であるから、間違いなく極楽へ帰ることでしょう。と

北朝鮮からの 帰国  曽我ひとみ さん (四十三歳) の ことば

二十四年ぶりに故郷に帰ってきた。とてもうれしい。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見える。空も土地も木も「おかえりなさい。頑張ってきたね」とわたしにささやく。だから、わたしもうれしそうに「帰ってきました。ありがとう。」と元気に話します。

曽我ひとみさんには故郷、新潟、佐渡の山、川、谷が「おかえり」と聞こえたようです。

普通では聞こえない「おかえり」声、・・・仏さまも同じように、私たちに声かけてくれているのだが、煩悩まみれで、聞こえない悲しい人間です。

最後ぐらいには、曽我ひとみさんのように、聞こえさせていただきたいものです。

  不二子富士夫「どらえもん」♫ あんあこといいな〜できたらいいな!あんな夢こんな夢いっぱいあるけど!

という不二子富士夫さんがいらっしゃいます。子ども達に大きな夢を与えてくださった漫画家です。

どうして子どもに夢を与える「どらえもん」が完成したか?と申しますと、毎日毎日が〆切で各社の編集員さんが詰め掛けて、先生の監視役、「書いてるかな?」

と編集員さんが毎日詰め掛けて、〆切におわれたのです。そのおかげで「どらえもん」という

子どもに夢を与える漫画が出来上がったのです。

  わたしたちにも人生最後の〆切「死」というものを迎えます。

  一年の最後の月で私たちの最後の〆切は「死」というものです。

一回死んだつもりで新年を迎え、身綺麗にスタートしたいものです。また、新しい人生もスタートします。

皆さんが良き歳でありますよう祈念いたします。  

*大分県  蓮華寺 にて  

「道心和合会」 実演 2002.12.10 発表の一部

過去〜平成13年12月  

過去〜平成14年12月