更新日09/06/21 一口放(法)談  毎月始めに更新しております。月刊誌「長命」より

平成13年   平成14年  平成15年 平成16年 平成17年 

平成18年 平成19年 平成20年

 

6月

紫陽花は 待望の雨 喜びし

今年も異常気象で春から雨が無く、やっと入梅になったかな?という感じです。

この雨を喜んでいるカエル、紫陽花、田植え、ホタル自然の恵みに感謝したいものである。

お寺もこの雨を待っていました。裏庭にはサツキ今年の春に植えた杉苔。

乾燥の中、水やりが大変でしたが、これからは杉苔も喜んでいることでしょう。もちろん方丈さんも水やりしなくて良いからよろこんでいます。

この雨は遠くインド中国のヒマラヤの高い山々からの吹き降ろしで、梅雨になるようです。地球という宇宙船号は日本に梅雨という季節を提供してくれる。

大自然の恵みの中に目には見えない大きな力が働いていることに気づかせられる。

人はその自然のめぐみの中に感謝しこれからも残してゆきたいものである。


 

5月

山笑う慈悲の恵みの善光寺

春から初夏になって来ました。

先日、4月9日〜11日と信濃今の長野の善光寺に行って来ました。初めて善光寺で日本仏教の秘仏の秘仏で一光阿弥陀如来三尊(前立本尊)=一つの光背で阿弥陀様、観音菩薩、勢至菩薩の三尊である。

平野は桜が五分咲きで、信濃の山々はすべて山でなく「岳」であった?

長野には山と言わず岳と言っていた。

高山になると山の呼び方までかわるのか?と思った。

善光寺は仏教全般であるが代表として浄土宗「大本願」天台宗「大勧進」に二宗が交代で参拝している。

丑年と未年の6年に一度のご開帳である。

7年の数え年(7-1=6) 参拝者は700万人である。

回向柱に触れるまで30分かかった。


4月

春は枝頭に在って已に十分

(はるはしとうにあってすでにじゅうぶん)

旅立ちの進学、就職と出発の時である。

心ウッキウッキ!気はソゾロ?

期待と不安を抱えながらの出発である。

「春は枝頭に在って已に十分」

中国 戴益の「春を探るの詩」の一説である。

春を国中探し回ったが春は何処にも無かった。

諦めて家に帰ると庭先の梅の梢に花があった。という句である。

日本語には春=はる=はれ=晴=心晴れ晴れ=春=幸せ。

と連想するようになっている。

幸せは何処にあるのか?国中探してもないし、他所に幸せを求めても幸せはなかった。

幸せというものは家の中にあるのであると。

自分の家の中で幸せ探しを楽しんでください。

春は枝頭に在って已に十分


B面サービス

中国 宗の詩人 戴益の「春を探るの詩」の一説

終日尋春不見春 杖藜踏破幾重雲

帰来試把梅梢看 春在枝頭已十分  

とある。

終日春を尋ねて春を見ず

藜(あかざ)の杖をつき踏破す幾重の雲

帰り来たりて試みに梅梢を把んで看れば

春は枝頭に在って已に十分

春はどこに来ているのであろうかと、一日中はるを探してあるいてみたが何処にもはるがやってきていなかった。

あかざの茎で杖を作ってあちこち探し回り春を探すのを諦め家に帰ってきた。

ふと我が家の庭先にの梅の小枝に目をやると、なんと梅の梢にはポツポツと花をさかせて香りを放っていた。

探していた春は自分の家にあったのだ。


 

3月

貪りの苦楽。求不得苦(苦)と不求自得(楽)

むさぼりのくらく。ぐふとっく(く)とふぐじとく(らく)

求不得苦とはあれが欲しいこれが欲しいと思っていても手に入れる亊が出来ない苦しみ。

お金と通帳と相談して買いなさい。ということである。

つまり欲が有りすぎると得ることが出来ませんよ!といことである。

その反対が不求自得である。求めないで自然と得ることが出来ることである。

自得に代表されるのが四季である。

いつまでも冬と思っていたら、いつの間にか春がやってきていた。

寒い冬中にも梅や桃そして桜の蕾が冬という時間の中で蕾を膨らませている。

春の訪れと共に花を咲かせるのである。

これを「当たり前」と思うか?「良かった」と思うか?によって自得という花を私の心の中に咲かせるのである。

自然よありがとう!と感謝する心の中に自得がかみしめられる。


B面サービス 

「おくりびと」感想。3回も涙した。年取った〜なぁ〜(/・・) (^。^)

 

このたびアカデミー賞映画になった「おくりびと」この受賞は大変今の時代にふさわしい受賞だと思います。

原作?「納棺夫日記」の著者である。青木新門さんの職業を元に描かれた映画です。

テロ、イラク戦争、911、自殺、命と経済、派遣労働、そして株価下落。

今までは経済一辺倒の時代を根底から崩され、命の軽薄さがこの世を支配してきた。

一大事の因縁によってこの世に生まれて来た私が経済という道具によって自らの心に偽り経済を求め、自らの命や心を裏切ってきた。

人間最後の納棺の儀に際し、まるで生きているかのように、やさしく厳かに接する生と死のハザマの中で人の命の尊厳さに、本来の人の生きてきた最後の証を大切にする。

この私も今から生きてゆくことへの命の大切さ!

死人の行く先の大切さ!がこの映画によって改めて思い出された。

これで、日本人もまだまだ捨てたものでない。

さすが日本人。 頑張れ日本人。自信を持て日本人である。

 

 


2月

驚けし 頭もたげて ふきのとう

年末からタケノコを頂戴して春の訪れにびっくり致しました。

今年はなんと春がやってくるのが早いのか?

例年ならば2月頃タケノコ(世間では4月〜6月)を戴くのだが。

地中の中では春本番です。

世間様では、景気の悪さで心の中では冬が抜けきれない状態です。

この冬の間でも仏さまは私達を見守って下さり確実に春に向わせようと働いて下さっています。

冬の間は寒さに耐え春を待つ「辛抱」という芽を私達に埋め込んで春と共に開花させていただくのである。

先日ドイツ人がお寺に2日間泊まり、リストラで日本を満喫し念仏した。

春を待つ。 天下泰平である。


12月1月

露のみは ここかしこにて 消えぬとも 心は同じ 華の台ぞ

一才歳を取る事になるお正月。時間はあっという間の過ぎ去った時間である。

過ぎ去った時間は「露のみ」のあっという間である。夕方から朝日が昇るまでの時間が露の身、朝日とともに一片の葉から露が落ちる。

その露のみの時間の間に四苦八苦をくりかえしす。嬉しいこと 楽しいこと 辛いこと 怨みごと 悲しいこと 別れること 欲なこと 侘しいことがある。

露のみの時間が昔は「人生50年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり」と織田信長が本能寺で舞を舞った。

今は高齢化時代で人生80年と露のみの大サービス期間中である。 30年のサービスである。

人生の時間が増えても露のみには関係ないのである。何故なら過ぎ去った時間の感覚は「露のみ」=「あっという間」であるからである。

80年の人生を楽しむには前向きな考え方が必要になる。

生かして頂いている事の実感。苦しい中にも人生の試練と受け取っていく。

かすかな望みという光が支えになって今の人生がある。

来年はきっとよいことがありますように!ナムナム。