勅修御伝0641

一りのミオヤを戴く処の世の同胞衆に告ぐ

 我等は人の子であると共に如来のみ子である。

人の子であるから一切動物欲の上に我欲を以て有ゆる罪を造る。

即ち地獄を造り餓鬼道を造る動物である。

日々の己が身と口と意の所作を反省する時は、地獄の火に焼れ餓鬼道の苦を受べき外にゆく道なきものである。

 

 


 然れども其心の奥底に潜める霊性の具はるあり。また大ミオヤの大悲此迷子を愍れむの慈悲心よりヘ主釈迦と現はれ、本地の慈悲を示して曰く、世のすべての子等よ、至心に我を信じ我を愛し我許に生れんと欲して只管我名を喚びて我を頼めよ、必ず光明の中に生れ更らん、との聖意かたじけなし。

例へば人の子たる此肉体が生れて初めは母の顔さへ見えぬものなれども、唯啼声を便りに母の乳房を哺められて成長せし如く、仏の子たる我等はミオヤの慈悲の面影さへ見えぬ赤子である。

唯ナムアミダ仏の啼く声に如来の慈悲に育まれて霊に活き御子の徳を成長れる終りには必ず仏に成るものと信じて、一ら念仏する時は必ず如来の御育てを被りて、光明の中の人となるを得べし。

 

仰ぎ願はくば世の同胞衆よ、共にミオヤの慈光を被むり、同胞共に相携へてミオヤの道に向上せんことを祈る。

 

 



『空海が心のうちに咲く花は弥陀より外に知る人はなし』

世に此歌は弘法大師の道詠と伝へられてをる。

何人の歌でもよい此道詠の如くに信心の花が開く時はミオヤの弥陀に知らるゝ人と為る。

さうなれば此方からも真にミオヤを信じて衷心から弥陀を慕はしく感じらるゝやうになる。

宇宙は本より大ミオヤの所有である。総ての生る物は皆其子である。

然れども生れたまゝの人は仏の卵である、卵のまゝではミオヤの在ますことを知ることはできぬ。

ミオヤの慈悲の懐にあたゝめられて信心の心が孵化る時初めてミオヤの愛護を被むるやうに為得らるゝ。

然らばいかにせばミオヤの慈悲にあたゝめらるやとなれば経にミオヤの慈悲の光は遍ねく十方の世界を照せども念仏するものゝみを摂取して捨てたまはぬと。

我ら念仏してミオヤの光にあたゝめられて信心開けて仏の雛子と為ることができる。

已にそうなる時はナムアミダ仏と啼く声にミオヤの慈愛はいつまでもうけてをる雛がピヨピヨと鳴く声に親鶏はコツコと呼びかはすやうになる。

かように我等信心開く時はミオヤに知られてをる人となる。

卵のまゝでは親の愛の受けやうはない。

願はくば我同胞の衆よ。

疾く信心の心を聞きて仏の雛となりて弥陀より外に知る人はなしと自信の立つように為てミオヤを慕ふ子としてミオヤの愛護の下に価値ある日ぐらしを為すようにならまほしきに御すゝめ申すにぞ。