人生の帰趣 0422

欲望(意思の信仰)

 意思の信仰を通じて菩提心と云ふ。菩提心とは無上大道徳心と云ふこと。

 

此に二義あり。

一に願作仏心、二に願度衆生心、

 

前者を向上心とし後者を向下心とす。

 

また前者を往相とし後者を還相とす。

菩提心とは菩提とは無上菩提とて宇宙大道無上覚の仏に成るべき道である。

仏に成らんには仏は宇宙全体が仏であるから、一切衆生を共に円満に完成せんとの願望である。

初めに自己が仏に成りたいと云ふのは、自分が仏に成らなくては、総ての人々を仏に為る事は出来ぬ故に、論註に我仏に成り度いとは一切衆生を度せんが為めに一切衆生を度せん目的は一切衆生と共に円満に完成して、永遠の安寧を得たい為めである、と。

此く仏の志願である。此の志願を満たしめんが為めに全生全力を献げて聖意に仕へるのである。

やはり之がミオヤの聖意である。

聖意を自己の意と為るから凭の如きの大道心と成るのである。愛の信仰を花とすれば、欲望の信仰は実を結ぶのである。

全人格を完成するに在る。聖子の分を尽すにある。

 

 


 願作仏心、また向上心、また往相と云ふ。

願とは我仏に成り度い云ふ志なり。


仏とは円満完全なる霊格である。

是ミオヤより受けたるみ子としての霊我実現せんとの欲、自己の性を遂げ伏能を開発し有らん限りを尽して完成せんとの欲望である。

伏能は行為に依て実現す。

総て行為働かざれば善悪共に発達せぬ。霊性は自身の中に伏して自由を求む。

自分の中より発せんとする霊に活きんと欲する性能を持ている。

けれども大法に依らざれば発現は出来ぬ。

 



心霊は自身の中に自由に実現せんとして居る。

夫を実現するのは行為である。

人十度すれば、己れ百度せんと一心不乱なれば何事か成らざらん。

己れの力を竭して働けば自己が益々顕明と成る。

自己が発達すれば、する程自己の全体が顕はれて来る。

視よ梅の種子から芽を出し、蕾から花、花から実と云ふもつまり本の種子の中に凭 な物が伏在して居るから、外貌からは不明であるがそれが己が力を竭して働き出して、芽を吹き蕾や花とも現はれたのである。

霊の生命も、本は動物本能の皮殻の中に仏性を種子として有つた間は狗子仏性とて何の価値も認められぬ。

一心不乱に専精努力の結果に於てこそ自己の真価が判明と現はるる。如何に聖人とて聖人の徳を顕はすには矢張り全身全力を竭し生命を賭してこそ始めて聖徳が顕るる。

何の処にか天然の釈迦自然の弥勒あらん。実に自己霊性を顕はさんが為めに、一切の幸福を犠牲にし有らん限り全力を尽してこそ釈迦の聖徳が顕現なされた。

又基督教徒はキリストは生れ乍ら神の子であると云ふ、けれども、ヨルダン川のヨハネに至誠心に洗礼を求め、野に四


十日断食して全力を竭して肉をせめ霊の活現を望んだではないか。

 

 


 欲生心。

吾人は人の子なると共に如来の子である。

已に人の子としての人の心は沃地に蔓延せる雑草の如くに我愛我執の人心に発達したればミオヤのみ子たる霊性は恐らく荒蕪して顕動しないがミオヤの大悲の恩寵に喚起されて初めて自覚の芽となつた
ミオヤは欲生の心を起せと命ぜられたので、初めて芽と為つた自己の霊的生命は恩寵の暖気に暖められて内面より不断に活動して進めば進む程新しい世界が顕現する。

聖き道徳心は現はるゝ。

種子が芽を出して幹から枝、枝に条、条に葉と云ふ様に次第次第に発展し増長し増長すれば益々花や果を結び、果を結べば、また新しい生命を幾らとなく分身して益々多々に分れて、何れも麗を競ひ美を争ふて、また芳烈を流す。


吾人の霊的生命も大なるミオヤの大地の上に根底を有て居るから、無限の養分は常に注がれて而して心霊性の枝葉に真善微妙の心霊の花開き香気普ねく十方に流れ嗅ぐ者をして清きに復せしむ。

心霊の樹已に成長する時は一切の煩悩汚穢の心意も益々そが為に肥料とされる。

彼をして同化力を以て新緑の葉とし瀾漫たる花の色香と変化せしむ。

あの穢しい物も桜木の食物と為りて、麗き花が穢れたあくたの後身とは誰か知らん。

我度が貪瞋の煩悩の汚も霊的生命の犠に献る時は還つて全心まで霊化して霊の生命を荘厳する美徳とは成るなり。

 

 


 我は仏の子。

もはや我は人の子ではない如来の子である。

ミオヤの有ゆる霊性は自己を通じてミオヤから自由に顕現して来る。

仮令ミオヤの身心万徳は全宇宙に遍するも、我此身心を通じて世に顕現するのである。

それが自由である。

仮令世の腐敗極れる社会に在りても泥中の蓮の如く自己に具有する霊性は自由に顕はれて来る。

自己の律法と秩序とは已に立ち已に伏能を有らん限り活動せざれば霊の面目は顕はれぬ。

行住座臥の常恒の活動から不断に顕はるゝ善と美と霊とを以てみ子の霊性を荘厳するに全人格を発揮すべきである。

霊に生きんと欲する生命は霊の活動を意味するのである。


霊が大なれば大なる程自己の大なるを自覚す。

自覚は必らず行為に現はさねば居られぬ。

然れども霊の生命はミオヤが愛の無限の泉源より自己の心に湧出する甘露の味を嘗めて不死の生命に入つた人にして始めて真の生命ある行為が出来る。

霊に活ける人は肉につきての悲痛や束縛から已に解脱して居るから如何なる事も敢て意に介せぬ。