人生の帰趣 0420

証信

 宗ヘ上の真理、即ち如来の実在を実験実証の上に立つる信仰である。

基ヘにて、聖霊に感じまた啓示を被むりし如き、神の実在を証す。

仏ヘにて仏知見開示も、亦悟道見性等或は念仏三昧発得し、光明を見、仏の相好を観見するときの如きを云ふ。


 聖法然三昧発得記に、別時念仏、初日光明少し現じ、第二日、水想観自然成就し又瑠璃地相少し現じ、第六日後夜に瑠璃地及び宮殿等の相現ず。

二月四日早晨に復瑠璃地現ず、或は赤青色、宝樹あり、或は四五丈或は二三十丈、其相宛も経中の所説の如し、或は極楽衆鳥並に答笛等の音を聞き、其の後、日々種々の音声を聞く、或は阿弥陀仏及観音、勢至等現ず。

上人入寂に近づき、弟子等、三尺の弥陀の像をむかへ奉りて病床のみぎに立て奉つて、此の仏瞻めましますやと申すに、上人指にて空を指して、此の仏の外に又仏まします瞻むや否や、と仰せられて、即ち語りて日く、「凡そ此の十余年已来念仏功積りて、極楽の荘厳、及び仏菩薩の真身を拝み奉ること常のことなり。

然れども、年頃は秘して言はず、今最後に望めり、故に示すなり」と。

 

 


 唐の聖善導盛んにヘ化を施し給ふ頃、懐感禅師と云ふ学識高き僧あり。

是れ法相の学者なり。

聖善導の念仏往生のヘ化を聞きて、大に疑惑して導師に問ふに、為に念仏三昧の法をヘふ。

禅師一心に三昧の法を修して三年の後ちに三昧成就して、白毫の光
を感じ、後ちの釈疑の為めに群疑論を著はす。

当時導師の化度により、老若男女を問はず、仏及び浄土荘厳を見、光明を拝む者数を知らずと。

証信必ずしも難しとせず、至誠に一ら念仏して止まざる時は必ず成就す。

 

 


 また縦令、仏の相好光明及び荘厳の相を観見せざるも、深く信じて大慈悲心を感じ、また仏心と相応して法悦を感ずる如きに至れば実験の信仰である。

必ずしも好相観見を要せず。

人の精神の奥底に伏せる霊性開発して、精神一転し霊に復活する時は自ら霊感を得て証信に入る。

 


 無生忍を得、また種々の三昧を発す如き、何れにしても信仰の実感を得たるは是れ証信の分と云ふべし。

 仰信より証信に至る、何れにしても、信じて疑なきに至れば正に信を得たるものと云ふべし。