唐の国、中国の 高祖光明 善導大師 終南大師 愚魯の会2006資料

浄土宗選書3藤井実応著「善導大師」に基づく。

五言絶句七言絶句のはやった頃に礼讃を仕上げた。日本の俳句、短歌の基

五七五七七.三十一文字(みそひともじ)観経の疏の初めも、五言絶句で始まっている。

隋の最後613年、日本では推古天皇21年聖徳太子の頃

中国東部、揚子江、淮河(わいが)の両下流域を占める省 あんきしょう(‥シャウ)【安徽省】もう一説には、山東省に生まれる。

大師は幼い頃、三論宗、明勝法師の弟子となったが、浄土の変相を見て非常に感動しどうにかしてあのような気高い菩薩の身となり、あのような美しく楽しいお悟りの世界、浄土に往生したいものであると、願心を発こされた。姓は朱氏。

 

後に戒を受け妙戒律師とともに「観無量寿経」を読んで非常に喜び、このお経こそ真に仏道に入る要である。と思われた。のちに観経の疏を書かれるきっかけとなった。

当時いろんな宗教が長安にあった。イスラムキリスト道教そのなかで善導大師は二河白道の喩えの中の異学異見に惑わされぬよう誡められた教訓があるがこうした宗教の社会事情を知るときに、一層そのみ教えがありがたくいただけるのである。

ぜんどう(ゼンダウ)【善導】

中国初唐の浄土教の僧。終南大師と尊称する。安徽省(あるいは山東省)の人。道綽(どうしゃく)に学んで中国浄土教を大成。著書5部9巻「観経疏4巻」「法事讃2巻」「観念法門1巻」「往生礼讚1巻」「般舟讚1巻」。(六一三〜六八一)

ずい【隋】中国で南北朝を統一した王朝名(五八一〜六一八)。北朝の北周の権臣楊堅(文帝)が静帝の禅譲を受けて建国。都は大興(長安)。五八九年南朝の陳を滅ぼして全中国を再統一し、唐制の基礎となる諸制度による集権的な帝国を建設。二世煬帝は大運河を開き、大規模な外征を行ったが、各地に反乱を引き起こし南北統一後、三十余年で滅んだ。

あんきしょう(‥シャウ)【安徽省】中国東部、揚子江、淮河(わいが)の両下流域を占める省。省都合肥。河川、湖沼が多く、農業地帯。。アンホイ省。

さんろん‐しゅう【三論宗】 (「さんろんじゅう」とも)仏語。南都六宗の一つ。三論1をよりどころとして、大乗の教えを説くもの。インドでおこり、鳩摩羅什が中国に伝え、隋の吉蔵が大成したという。わが国には、推古天皇の三三年、吉蔵の弟子、慧灌が渡来して広め、智蔵、道慈が入唐して宗旨を修めて以後、宗の名を立てた。空宗。中観宗。無相宗。三論。

 

偶然の必然性(椎尾弁匡)

大師が一切経の中から私ごときの者の機にあう経典を与え給えと祈念し、それを決定せんとしててにまかせ、手探りで探りあてたのが「観経」であったので、この経を私を救いくださる唯一の経典と決められた。「観経」が触れられたからよいようなものを他の経典が触れられたらどうなったのでしょう。これが信仰生活の偶然の必然性という。第六感みたいなもの?

師は道綽禅師、盧山慧遠(ろざんえおん)法師(白蓮社)をお慕いする。

盧山慧遠法師:(334-416)30年間盧山に篭り10年に3度弥陀の聖相を拝み命終の7日前に浄土の荘厳と阿弥陀仏、観音勢至を拝み弟子等告げ8月6日、83歳に往生した。

僧侶の○蓮社と称号がつくのは慧遠の由来からである。

 

えおん(ヱヲン)【慧遠】

中国東晋の僧。白蓮社を創設し、中国浄土宗を開いた。「大知度論要略」「沙門不敬王者論」を著わす。(三三四〜四一六)

道綽禅師:(526−646)「続高僧伝」行きて西河に至り道綽禅師に遇い、唯念仏弥陀の浄業を行ず

山西省は当時戦争と飢餓に苦しんでいた。黄土で水が無く作物にはてきしていなかった。そんなところで生まれ育った。王は金持ちやお寺は貧しい農家の子供を預かり育てるようにと命令を出し、14歳の時入寺した。

玄中寺に参り、曇鸞大師の業績を残した碑文をみて感激し、大師の大学者も念仏一行に帰せられた。自らも念仏一行になった。それまでは「涅槃経」の学者であったが、曇鸞の芳触に学び専修念仏者になって「観無量寿経」を講説するようになった。

70歳の時に、一両日中に亡くなることを自覚し、皆が集まった時に、空中に曇鸞大師が宝の船に乗って現われ、「おまえは浄土に生まれることはきめられているが、お前はまだ人々を教化していない、もっと人々に教化するように」とのお告げがあった。70歳でまた歯が生えた。さらに教化に努めた。

善導は師と仰ぎ、三昧発得の聖者となった。

さんせい‐しょう(‥シャウ)【山西省】 中国の省の一つ。太行山脈の西に位置するのでこの名がある。周囲は二方を山、一方を黄河、一方を長城によって、それぞれ区切られている。省都太原のほか、大同、長冶、陽泉などの都市がある。鉱産物に富み、石炭、鉄、食塩、硫黄、石膏などを産す。山右。晋。さんせい。

続高僧伝(ぞくこうそうでん)とは、慧皎の「高僧伝」に続けて撰せられた中国の高僧の伝記集である。道宣撰、30巻、645年貞観19年)の成立である。

梁の初めから唐の初めに至る約160年の間の僧伝を集めている。別名、「唐高僧伝(唐伝)」ともいう。成立の過程において、たびたび増補改訂が繰り返されており、自序では貞観19年に至る144年の僧侶500名(正伝340名、附伝160名)を収録したと述べているが、現行本には、正伝・附伝あわせて700名余りの伝記が収められている。そのことは、一例を挙げれば、664年麟徳元年)没の玄奘伝も完結していることを見ればわかる

 

大師の日常の行持

堂に入るときは合掌胡座(あぐら)して一心に念仏し、力尽くまで休まず、寒冷の中にも汗を流して、至誠をもって念仏せられた。出でてはすなわち道俗を教化して浄土の業を修しめ、入りては30余年、別の寝所を定めず。お風呂の他は法衣を脱がず、立って行道し礼拝称名を事とし、戒を護持して少しも犯さず、かつて目をあげて女人を見ず(かつて=否定)(何処かの誰かさんのように目を女人の方ばかり見ないように)(君子危うきに近寄らず)一切を尊敬し、小僧さんまでも礼をうけなかった。一切の名利をさけ、無駄ごと戯れすることがなかった。「新修往生伝」

信者の導師の熱烈な伝道の一端

@長安、光明寺における柳樹捨身往生の信者

信者:今念仏申せば必ず極楽に往生ができますか?

導師:確かに往生する

それは信念を慈愛に充ち満ちたお言葉であった。

信者:ありがとうございます。

といって、礼拝合掌してその坐を立ち、寺の門を出た。

そこに大きな柳の樹があった。その男の信者は柳の樹に登り、西に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏と申しながら投身して死んだ。

いわゆる捨身往生をとげたのである。

唐宋の時代には仏道のための身を献じて死することは奇特のことと考えられていた。

A屠児宝蔵(えとりほうぞう)の帰依 屠児=肉屋

導師の熱烈な教化によって念仏の声は洋々として漲り、長安の都の人々は肉食を食するひとが少なくなった。かれの商売はあがったりで商売ができなくなり倒産した。これは皆導師が因(もと)である。と恨み憎悪の念は念仏隆昌とともに高まりついに、宝蔵は刀を隠して大師を殺害せんと大師の住房に入り、血相をかえて刀をもって大師にせまった。

大師は従容(しょうよう)として念仏しを称えながら、静かに西方を指された。すると、たちまちそこには微妙荘厳の浄土が現われた。その光景に驚いた宝蔵は、大師の前に身を投じて懺悔陳謝し、熱心な念仏行者となった。

大師は念仏三昧に入って、阿弥陀仏と一体化の境地にあられたのであろう。形を見れば善導であるが、それは阿弥陀仏が善導となって現われ給うたともいえる。

威神光明限りなく、巍巍たる尊容に接しては宝蔵なるものも、その威厳に心打たれ、その霊気にふれて、おのずから低頭懺悔せざるをえなかったのであろう。

極悪人のために極善最上の法をもって摂化せられる弥陀の妙用を拝せずにはおれれない。

 

わが身わが心、すべてを如来さまに捧げまつりしに身、もはやわが身にあらず、ましてわが物とてはない。すべては阿弥陀のみ命、阿弥陀の御物である。み心を心として生き、一切の人および物や事を生かす働きがそこからあらわれてくる。善導大師にとってはいかなることも、わがためにすることはない。すべては阿弥陀のみ心、御働きによって、人を生かし、物を生かし、事を生かされたのである。

 

 

えとり(ゑ‥)【餌取・屠児・穢取】鷹や猟犬などのえさにするため、牛、馬などを殺す人。また、牛、馬を殺して、その皮や肉を売る人。

しょうよう【従容・縦容】  おもむろに (形動タリ)気持をやわらげ、ゆったりと落ち着くこと。あせらず、ゆうゆうとしているさま。じゅうよう。「従容として死に就く」

仏像みな光明を放つ

長安の都の寺で金剛法師と念仏の勝劣を論ぜられたことがあった。大師はみずから高座にのぼり、誓願して言われるのに

「諸経に中に、一日乃至七日、念仏申しても、あるいは一念十念の念仏ででも定んで浄土に生まれると説かれている。もしこれ真実にして衆生を誑(たぶら)かすものではないならば、堂中の仏像すべて光を放ちたまえ。もしこの法、虚しくして浄土に生まれることができなければ、この高座より地獄に堕せしめたまえ。」と。すなわち、如意杖うを持って仏像を指されると仏みな光明を放たれたという。

弥陀の光明を全身に浴びせられていた大師は、弥陀そのものとなって、光明赫耀たるものがあったのであろう。

たとい論議をつくしても理論明知というのものは、人間のはたらきの一部にすぎない。宗教は全生命の救いとなるものであって、勝劣といっても知だけでなく、その全人格的なものでなければならない。ぶつ仏格ともいうべき善導の大人格に接しては日頃の学問論理などDえは役にもたたず、いかにも深い闇も、真実の光によってたちまち破られる。大師の真実語は、仏像がみな光明を放つごとく、そこには浄土が展開顕現する。その真実の前に、論議をされた金剛法師ならずとも、何人にても跪かずにはおれないであろう。

かくよう(‥エウ)【赫耀】〔形動タリ〕 赤く照り輝くさま。2 威徳などが光り輝くさま。勢力あるさま。

 

口より光明輝き出る(応声即現)(おうしょうそくげん)

善導大師のお絵像を拝見いたしますのに、そのほとんどが合掌念仏のお姿である。その中には、お口から光明が輝き出て、そこに仏様が現われているお絵像がある。

「往生伝」

ある人が大師に尋ねられた。「念仏すれば浄土に生まれることができますか?」

大師は「あなたが念ずるところのごとく、その願を遂げることができる」とお答えになり、大師自ら阿弥陀様を念ぜられると、一声念仏申されるごとに一道の光明、その口より出、十声百声までも同じく光明が現われた。

ここに大師の熱烈なる、また深い信心の境地がうかがえる。阿弥陀仏の絶大なる本願力は、念仏の申される声に即して現われる(応声即現)(おうしょうそくげん)のであって、われら煩悩に覆われた眼には見えないけれども、仏の本願力は念仏を申すところに現前し、光明をもって摂取(いだきとる)し、化益(みちびき)下さるのである。それゆえ、阿弥陀仏いずれに存すかと問えば、南無阿弥陀仏と申すここに存すと答えるほかはない。

「阿弥陀仏此処を去ること遠からず」と観経に説かれ、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」という。阿弥陀仏の本願32願に「触光柔軟」の願がある。その願うを成就して「この光に遇うものは、三垢消滅し身意柔軟に、歓喜踊躍して善心を生ず」とある。そして決して捨てたまわぬのである。「一念に一度の往生をあておきたまいたる願なれば、念念ごとに往生の業となるなり」との法然上人のお言葉も、このみ教えとあわせてよくよく味わさせいただきたい。

ありがたや 南無阿弥陀仏 いきほとけ

 

三昧発得の聖者

懐ツ(えうん)善導大師の弟子の碑「親証三昧大徳善導阿闍梨」とある。

法然上人「選択集」「偏に善導一師に依る」阿弥陀仏の化身、「観経の疏」は古今楷定(ここんかいじょう:古今に亘って諸師の述べられた観経の解釈に対し、あやまりを正して真実義を顕わされた)の疏であり、弥陀の直説と頂かれた。

 

あじゃり【阿闍梨】 (梵DcDryaの音訳。弟子を教授し、その軌範となる師の意)仏語。小乗の律ではこれに出家、受戒、教授、受経、依止(えじ)などの別を教え、また大乗では羯摩(かつま)と教授、密教では、学法灌頂と伝法灌頂をたてる。あざり。

 

入 寂

晩年、浄土の変相を書かれ「どうしてそんなに急いで、早くお書きになるのですか?」

大師:「わたしはまもなく浄土に還ろうとおもう。この世に住するのも2・3日である」と申された。

お言葉通り忽然として唐の高崇永隆二年(618)3月14日、生涯を閉じた。御年69歳であった。

 

著書5部9巻

「観経疏4巻」――(解義分)教義を敍述―――――教門

「法事讃2巻」――(行儀分)儀礼の実践―読誦正行―――行門

「観念法門1巻」―(行儀分)儀礼の実践―觀察正行―――行門

「往生礼讚1巻」―(行儀分)儀礼の実践―礼拝正行―――行門

「般舟讚1巻」――(行儀分)儀礼の実践―讃歎供養正行―行門

今、この中に称名正行を配置しない理由は、称名念仏は四部いずれのも共通するからである。

善導大師の宗教の儀礼(祭り方)(観経疏以外の4書)により、総合的な芸術様式今の本堂の飾り(天蓋、瓔珞等)配置(弥陀三尊)が行われている。